第12回論文
『分断の映画史・第四部~カール・ドライヤー 第一章 『分断の映画史』 第二章 古典的デクパージュと外側からの切り返し 第三章 運動論
第一章 『分断の映画史』
■「裁判長(Prasidenten)」(1918)
『カール・ドライヤー内側からの切り返し表』を提示する。表の一番右の列には内側からの切り返し、外側からの切り返し、クローズアップの数、平行モンタージュのあるなし等が書かれている)。
★『分断』②
カール・ドライヤーの処女作における『分断』②を検討する。男は貴族、女は平民であり、後世に至るまで貴族の家に大きな禍根を残すことになる出会いを9ショットで撮っている。赤い部分は2人が同一画面に収められているショットでそれ以外は内側から切り返されている。客観的なショットか主観的なショットかを指摘しながら最初から見てみると、、①大きな扉を開けて男が入って来て女に気づくフルショット(客観から主観へ)、②ブラウスの胸を露わにした洗濯女ヤーコバ・イェッセンを男が見つめるフルショットの主観ショット(主観)、③左手で扉を閉め何もなかったように女の前を通り過ぎようと歩き始める男のフルショット(客観を装った主観)。④さり気なく女の前を通り過ぎてから立ち止まって振り向き女を盗み見する男と、その気配を察した女が洗濯の手を止めるフルショット(客観から主観へ)。⑤男が女を盗み見するバスト・ショット(主観)、⑥見られていることを察して男へ振り向き男を見つめる女の胸を露わにしたバスト・ショット(主観)、⑦女と目が合い慌てて目を逸らす男のバスト・ショット(主観)、⑧洗濯を再開する女のフルショット(客観)、⑨手前で洗濯をしている女と去ってゆく男のフルショット(客観)、、と、こうなる。
★検討
貴族の男が平民の洗濯女に恋をしてしまいそれがもとで貴族の家に大きな禍根を残すことになる2人の出会いの瞬間を捉えた9つのショットである。ここに「女に恋をして」と書いたがフィルムの連鎖を見る限り正確には「女に引っかかった」と書くのが正しいだろう。
★大胆な女をフィルムの連鎖によって撮る
この女は胸を大きく露わにさせて洗濯をしているところを見ても、淫乱、とは言わないまでも映画的には十分に大胆な女であり、この男はその女を(女の胸を)見てしまい(主観ショット②)、女の前を通り過ぎたふりをして振り向いて盗み見をするという行動に出ている(④⑤)。ちなみにこの『盗み見』という男の行為は大胆な行動ではない。男は正面から女を見ることができず女の前を何食わぬ顔で通り過ぎ女との距離を置いてから振り向いて盗み見しているのであり、成瀬己喜男の論文第二部でも検討したように、盗み見とは面と向かった話し合いでは何にも解決することのできない内気で内的な人物たち固有のコミュニケーションであり、この男は女を面と向かって口説くことのできない内的で内気な男として撮られている。ところがこの洗濯女は男に見られている視線を感じると洗濯の手を止め(④)、盗み見をしている男(⑤)へと瞳を向けて視線を合わせてしまう(⑥)。すると男はまるで成瀬己喜男「お國と五平」(1952)で主人の木暮実千代を盗み見して目が合ってしまった家来の大谷友右衛門のように慌てて目を逸らす。この洗濯女は胸を大きくはだけているだけでなく見られた視線にみずからの視線をあわせてしまえる大胆な女なのだ。その後2人は肉体関係を持つが、身分の違いから結婚を拒否された女は男の父親の元へ談判に行き男と関係を持ったことを暴露して脅かし結婚を承諾させている。この一連の9ショットの連鎖によって映画は『内気な男が大胆な女に引っかけられた』瞬間をフィルムに収めている。大胆に胸をはだけているだけでなく、自分の姿を盗み見している男とあられもなく視線を合わせてしまう女。これによって気弱な男と大胆な女、洗濯女に引っかかる貴族、という運命が撮られている。画面で物語を表しているので字幕は入らない。9ショット、時間にして18秒。主観と客観で見てゆくと、①客観から主観へ②主観③客観を装った主観④客観から主観へ⑤主観⑥主観⑦主観⑧主観から客観へ⑨客観、、、となる。処女作の序盤の重要な出会いのシーンでいきなりこれを撮っている。
★内側からの切り返し
検討した『分断』②をいつものように書くと『父親エリート・ピオと洗濯女ヤーコバ・イェッセンとのあいだは、3ショット目と最後の8ショット目で同一画面に収められているものの8ショット目の男は後ろ姿なので「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)、そのほかの5ショットはすべて内側からの切り返しによって分断されている』、となるだろう(ここでの全ショットは9ショットだが、切り返しのカウントをする場合、現在では最初のショットは『切り返しの原ショット』として切り返しには含ませずに数えているので全ショットは9ショットだが切り返しは8回になる)。
★『分断』とは
『分断』②の内側からの切り返しは5回でありそれほど多くの内側からの切り返しによって『分断』されているわけではない。『分断の映画史・第一部』での検討のように『分断』において重要なのは長い分断ではなく『分断』された結果「その人」を「そのひと」として撮ること、或いは「九龍猟奇殺人事件(踏血尋梅)」(2015香港・フィリップ・ユン)の批評でも論じたようにそのショットが結果として「ずれ」ていることであり『分断』が必然的に「そのひと」へ直結するわけではなくまた切り返された回数も基本的には関係しない。ただ『分断の映画史・第一部』で検討した「メトロポリス」(1926)、「大砂塵 」(1954)のように結果として数十もの切り返しによって『分断』がなされている作品もある。
★『分断』⑧~『持続による同一存在の錯覚』
裁判長の娘、オルガ・ラファエル=リンデンが法廷で裁判を受けるシークエンスでは娘と他の者たち(検事、裁判官、陪審員、傍聴人、記者)たちとのあいだは隣の弁護士を除いて30ショットすべて内側からの切り返しによって『分断』されている。さらにここでは横へのパンによって撮られた『持続による同一存在の錯覚』によって娘と他の者たちとが同一画面に収められることが周到に回避されている。キャメラを横へ横へとパンさせながら撮り続けると人々は持続した1ショットの中では結果的に同一画面に収められてはいても隣接していない限り同時には決して同一画面に収められることはない。『分断の映画史・第一部』で検討したヒッチコック「裏窓(Rear Window)」(1954)、「めまい(VERTIGO)」(1958)などによって頻繁に撮られている『持続による同一存在の錯覚』は、『「持続」という連続によって時間的には「1ショットの中での同一画面」を保証しておきながら実はその「同一画面」は時間という残像によってもたらされた虚像にすぎず、』(『分断の映画史・第一部』参照)、実際ここで被告の娘と他の者たちとは決して同時に同一画面の中に入って来ることはない。『持続による同一存在の錯覚』は『奇妙な同一画面』と同様に『分断』の傾向が強く現れる方法のひとつであり、こうした方法を駆使しながら30ショットの長きにわたり同一画面に収めることを拒絶しているこのシーンは、処女作から既にドライヤーには『分断』の傾向が現れていることを指示している。
★エスタブリッシング・ショットの不在
さらにこの裁判シーンでは法廷全体を捉えたエスタブリッシング・ショットが撮られていないことから人と人との場所的関係が定かには分からず従って内側からの切り返しにおけるイマジナリーラインは不問となり見ている者たちの場所的感覚を失わせる。エスタブリッシング・ショットの不在もまた『持続による同一存在の錯覚』と同様、『分断』の傾向のひとつとして現れている。
■「サタンの書の数ページ(Blade af Satans Bog)」(1919)
次に同じくデンマークで撮られたこの作品では内側からの切り返しが117から375、『分断』23箇所から81箇所へと飛躍的に増加している。
★第一話『分断』①②⑤⑥⑫~エスタブリッシング・ショットの不在と逆方向への切り返し
キリストの最後の数日間を撮った第一話ではエスタブリッシング・ショットの不在の傾向が顕著に見え始めている。『分断』①②ではサタンと高僧、学者たちの位置関係はエスタブリッシング・ショットの不在によって不確かとされ『分断』⑤では階段を降りてきたユダに対して彼を見ている高僧たちの執拗に「見ている」という体勢がエスタブリッシング・ショットの不在と相まって「見ていない(別々に撮られている)」という『分断』を醸し出している。その直後、『分断』⑥ではイエスを処刑せよと訴える学者たちとそこから切り返されたカイファとはどちらも向かって右方向を向いているにもかかわらず視線は合致しているようであり、ハリウッド映画では基本的に撮られることのない『逆方向への切り返し』が撮られている。さらにここでもまたエスタブリッシング・ショットの不在と相まって空間的な浮遊感に襲われている。終盤の『分断』⑩でもまたエスタブリッシング・ショットが撮られていないためにイエスを捕えにやって来たて兵士たちとイエスの弟子たちとの場所的関係が浮遊してイマジナリーラインもまた無化されている。『分断』⑫でもまたエスタブリッシング・ショットが撮られておらず弟子たちの存在が不思議な浮遊感に襲われてしまう。エスタブリッシング・ショットの不在とはそもそもイマジナリーラインが合っているかどうか分からない状態であり、従ってそれはイマジナリーラインの「無化」ということにならざるを得ない。「裁判長」(1918)においても『分断』⑨の法廷シーンなどでエスタブリッシング・ショットの不在は現れているが多くは主観ショットであったのに対して(主観ショットはエスタブリッシング・ショットの不在を伴いやすい)人間同士のイマジナリーラインの無化を伴うエスタブリッシング・ショットの不在による奇妙な現象が顕在化し始めるのは第二作の「サタンの書の数ページ」(1919)以降である。
★第二話『分断』⑧~成瀬目線
ドン・ゴメスの家へ向かう異端尋問審査官たちを見ている伯爵が成瀬目線を使って彼らを見ている。第三話『分断』27でサタンが使っているオフオフと同じように成瀬目線は画面の外部に存在しない人物を瞳を動かすことによって仮構する方法であり、人物が存在しないことにおいて『分断』の手法そのものとして現れることになる。成瀬目線とオフオフが撮られることにより「サタンの書の数ページ」は「裁判長」からさらに『分断』を強めた傾向を指し示している。
★第二話『分断』⑩⑬~照明の修正とアイリスの関係
照明の修正とは基本的にはカッティングによって生ずる光の変化であり、フルショットからカットを割ってクローズアップへ、人物AからBへ、等、カッティングがなされるごとに起こりうる出来事であり、長回しの場合にも起こりうることではあるものの基本的にはカットを割って為される修正ほど大胆な修正にはならず、それをしようとするとオーソン・ウェルズ「黒い罠(TOUCH OF EVIL)」(1957)のオープニングのようにその都度再フレーミングをすることになり金がかかり作家は呪われることになる。処女作「裁判長」(1918)においてもカットが割られている以上当然照明の修正はなされているが、さほど大胆で劇的なものとしては撮られていない。「裁判長」では序盤、父親の回想で関係を持った洗濯娘との結婚式が撮られているが、ここで新郎、新婦のアイリスで囲まれたクローズアップが撮られており、確かにここではその前後のフルショットとは違った強い光がそれぞれの顔に当てられているもののそれ以上の「ずれ」を生ずることはなく却ってアイリスに頼ることでずれの効果が減殺されている。アイリスによって囲まれたショットはそれだけではずれることはなくそこに加えてD.W. Griffith「イントレランス」(1916)の山の娘コンスタンス・タルマッジの出のショットで撮られたアイリスに囲まれキャメラを正面から見据えたクローズアップのように、あるいは「東への道(WAY DOWN EAST)」(1920.9.3)でキャメラマン、ヘンドリック・サートフによって撮られたリリアン・ギッシュの周囲を暗くした強烈なバックライトを浴びたクローズアップのように前後の時空からの結果的逸脱によって出現する現象でありアイリスそれだけで生ずる出来事ではない。むしろこの「裁判長」の結婚式のシーンのクローズアップよりも『分断』⑫で撮られた裁判長の娘の1ショットのクローズアップがより質的にずれている。伯爵夫人がドアを開け『出て行きなさい』と言われるシーンで撮られた娘のクローズアップはさり気ないクローズアップだが照明の修正と前後のショットの時空からの逸脱によってはっきりとずれを生じておりドライヤー作品における1ショットよるずれの「起源」とも捉えるべき瞬間がここには撮られている。「サタンの書の数ページ」においてはさらにそれを進め『分断』⑩の切り返しにおいては学僧に襲われおののく娘の影がベッドの奥の壁に鮮明に投射されており、その前後のややぼやけた影とは質的に異なるこの照明の修正による鮮明な影は、ドライヤー作品が照明によるショットを撮ることへと向けられた「起源」を提示する「ずれ」が生じている。さらに『分断』⑬の切り返しで異端尋問に屈することなくキリストに祈りを捧げている娘にバックライトが当てられている(このシーンは横を向いている娘の正面から撮られていることからサタンと娘とのあいだにキャメラを置いて撮られておりより『分断』の傾向が強められている)。さらに第四話の『分断』⑩ではキャメラを正面から見据えている娘のクローズアップにバックライトが浴びせられ、『分断』⑭ではキリストに祈りを捧げる妻の真っ暗な空間の下からの強烈なライトが当てられ、『分断』⑮では地面に投射されている人影のみによって『人の侵入』という物語が語られ、『分断』21では神に祈る電信技士の妻にリアルタイムで移動するバックライトが当てられており、このあたりから照明の修正によってショットを『分断』して撮るという方向がドライヤー映画のひとつの撮り方として確立されてゆく。
★合わせ技~キャメラを正面から見据えること
第四話『分断』⑩では父親を赤軍に殺された娘ナイミが仇を打ちために白軍に身を投じる時、そこで隊長から『戦死した時死体を送る住所はどこだ』と尋ねられた娘が『フィンランドの土に埋められるだけで満足です』と答える時のショットはクローズアップでキャメラを正面から見据える娘がバックライトに照らされるという合わせ技で撮られている。第一話でキリストがキャメラを正面から見据えるショットで始まるこの作品は「裁判長」では撮られなかったキャメラを正面から見据えるショットが多く撮られ始めている。キャメラを正面から見据えるショットは仮にこの『分断』⑩のようにそれが切り返しの過程で撮られているなら2人の人物のあいだにキャメラが置かれることでその者は相手ではなくキャメラを見ていることになり(この『分断』⑩では娘は相手の方を向いていないのでこれは妥当しないが)また狭い場所では相手をどけて撮ることになりさらに物語との断絶が生じるばかりか『正面表』第二話の②のように相手不在の単独で撮られたショットだとしてもキャメラの存在を露呈させることによる物語からの逸脱を惹き起こすことになる。キャメラを正面から見据えるショットはキャメラがその人物と正面から向き合う構図であり照明の修正などの合わせ技により「その人」を「そのひと」として撮ることの一つの方法となる(現代映画ではならないことが多いが)。
★主観ショット
主観ショットは見ている者の見た目を撮ったショットだが実際の見た目を撮ることはできず必然的に別々に撮られることになりこうした強い分断性が多くの場合エスタブリッシング・ショットの不在を伴って現れることになる。主観ショットは向き合って見つめ合っている者同士で撮られる場合には2人のあいだにキャメラを置いてそのキャメラを見つめるようにして撮ること以外にはあり得ず(あるいは別の場所にいる者を中抜きで撮るか)極めて『分断』性の傾向の強いショットとして露呈することになる(撮り方にもよるが)。ちなみにドライヤーの処女作「裁判長」(1918)における最初の『分断』①は主観ショットで撮られている。『分断』の傾向をさらに強めてゆくと「吸血鬼(VAMPYR)」(1931)『分断』⑯のように髑髏の間(部屋)に入って来た吸血鬼と医者の二人を棚に飾ってある髑髏が成瀬目線を使いながら盗み見する髑髏の主観ショットとして現れることになり、『分断』48、49、50では棺の中で目を開けて死んでいる死者の主観ショットまで撮られることになる。
★第三話『分断』23~客観から主観
革命後、平民を装って逃げ延びていた伯爵夫人エンマ・ヴィーエとその娘ジャンヌ・トラムクールがサタン(悪魔・ヘリエ・ニッセン)の書いた密告の手紙によって革命派に捕らえられ検察官ヴィルヘルム・ペーターの家で尋問を受けるシークエンスが撮られている。母娘の尋問が終わって全員が『正常な同一画面』に収められた後、伯爵邸の元召使で娘を愛し母娘を密かに支援し今は革命党の有力者となった男エリート・ピオが伯爵母娘を匿っていたことで検察官から糾弾される。密告の手紙を書いたのはこの元召使でなくサタンなのだが、そこへ変装したサタンが密告の手紙を持ってやってきて「これを書いたのはこの男だ」と噓をつくと、検察官が「なんだ、そうだったのか。」と笑顔で元召使に問いただす。真実を言えば革命派から糾弾され嘘をつけば愛する娘を裏切ることになるこの究極の選択ともいうべき引き裂かれたシーンにおいて元召使は、打ちひしがれてベンチに座っている母娘とテーブルを挟んでやや斜め左向かいに立っている。ここからキャメラは検事と元召使、サタンとのあいだを幾度か切り返されてゆくのだが、娘の大きなクローズアップとアイリスで黒く囲まれた元召使のクローズアップとのあいだで何度か切り返されさらにサタンの大きなクローズアップとも切り返されてゆくその17ショットのあいだすべて内側から切り返され元召使の男と母娘が同一画面に収まることは一度もなくシークエンスはそのまま終わっている。最初に母娘の後方から撮られた『正常な同一画面』は何の装飾も施されていない真っ白な壁に囲まれた無機質でただ明るく広い空間であったのが、元召使への糾弾へと向かった瞬間いきなり主観的時間空間へと転換され、その直前までの客観的空間からまったく断絶された暗さに支配された心理的な密閉空間の中へと放り込まれ、そのままシークエンスは分断の余韻を残しながら終わっている。美術と光とアイリス、そして切り返されるキャメラの対象を限定しながら、サスペンスは『分断』によってこそ生じるのだと言わんばかりの傾向をここに見出すことができる。
その直前、検察官に伯爵夫人とその令嬢が尋問を受けるシーンにおいて、尋問する検事と向かいで立っている2人(伯爵夫人とその令嬢)とのあいだは、3ショット内側から切り返されている。どちらもキャメラの右側を見ていることからイマジナリーラインがずれているように感じられるがどちらのショットも人物の左側から撮られている=逆から切り返されている=ことからイマジナリーラインは合っているようにも見える。ハリウッド映画の切り返しの場合キャメラは基本的に同じ側から切り返されることから向かい合っている人物がどちらもキャメラの右側を見ていればイマジナリーラインがずれていることになるが、逆から切り返された場合イマジナリーラインは整合することになる。逆からの切り返しについてはのちにもう一度検討するが、ここでの伯爵令嬢の最初のショットではバックライトによってその直前の同一画面からの照明の修正がなされていることにより『分断』の傾向が強められている。
★第四話~『分断』⑰⑱⑲
1918年春、ロシアの赤軍に占領されたフィンランドの小さな鉄道駅の物語であり、終盤、赤軍の兵士たちに取り囲まれ偽の電信を撃つように強要されている電信技士カーロ・ヴィートとその妻クララ・ポントピダンとのあいだでなされた切り返しがここでの検討になる。まず『分断』⑰によって電報を打てと迫られている夫とそれを見ていて「打っちゃダメ」という顔をしている妻とのあいだが『正常な同一画面』に挟まれた8ショットクローズアップによって内側から切り返されているが、アイリスに囲まれたこの内側からの切り返しでは特に2人の照明の修正されたクローズアップがその前後に撮られた『正常な同一画面』とは異質の時空を露呈させている。さらに『分断』⑱では、夫の代わりに電信を打てと脅かされ夫へと振り向いた妻が夫とのあいだで4ショット内側から切り返されているが、命令に従わなければ夫を撃つぞと脅かされた妻は夫へと振り向くと『やってはだめだよ、』と妻に語りかける夫のクローズアップへと内側から切り返されさらにそれを見た妻へと内側から切り返されているこのシーンは『分断』されることで却って2人のあいだにプライベートな時空を露呈させている(ここでは夫が立ち上がるショットから夫への照明が修正されている)。さらに『分断』⑲では処刑されるために連行される夫と彼を見送る妻とのあいだで、戸口で振り向いた夫のクローズアップとそれを見て泣き崩れる妻とのあいだが2ショット内側から切り返されそのまま終わっている。ここで逆から切り返されている妻のショットは髪のてっぺんに光が当てられた修正された照明によって撮られており、僅か2ショットの切り返しだがこういうシーンは別々に撮ることが倫理だとでも言いたげな頑ななまでの『分断』への拘りがフィルムに刻まれている。
■「イントレランス(INTOLERANCE)」(1916)~D・W・グリフィス
「ドライヤーは処女作「裁判長」を撮ったあとD・W・グリフィス「イントレランス」を見ており(改訂版D・W・グリフィス内側からの切り返し表。「改訂」とは前回の論文から時間が経ち今回再見することで取り直したデータのみの掲載である)、その影響についてドライヤー自身何度も語っているが(「作家主義」396頁など)、4つの時代に区切って物語を語るスタイル以外に「裁判長」から「サタンの書の数ページ」(1919)によって大きく変化した出来事を以下に挙げる。
① 内側からの切り返し 117→375
② 『分断』 23→81
③ クローズアップ 27→136
④ 照明の修正 新たに出現
⑤ キャメラを正面からはっきり見据えること 0-5
⑥ エスタブリッシング・ショットの不在 増加
⑦ イマジナリーラインのずれ 増加
■これらの特徴で「イントレランス」と共通するのは
① 内側からの切り返し294(「イントレランス」における数)
② 『分断』 40
③ 照明の修正
④ キャメラを正面から見据えること 9、
■「イントレランス」(1916)と共通せず増加したこと
① エスタブリッシング・ショットの質的増加
② イマジナリーラインのずれ(逆からの切り返しによりそう見えるのを含む)
③ 成瀬目線の登場
★「イントレランス」は内側からの切り返しとそれによる『分断』の傾向が強く現れた作品であり294回という内側からの切り返しとそれによる『分断』、クローズアップ、それに伴う照明の修正、キャメラを正面から見据える傾向が「サタンの書の数ページ」へとつながった可能性もある。平行モンタージュについてグリフィスは短編時代から極めて多く使い始めているが(これはグリフィスに限らない)、ドライヤーもまた処女作「裁判長」の後半では特に平行モンタージュを多用しさらに「サタンの書の数ページ」でも多用され、以降「吸血鬼(VAMPYR)」(1931)のラストシーンでの粉ひき場に閉じ込められた医者と街を出る青年と娘とのあいだを何度も平行モンタージュさせているように極めて多くの平行モンタージュを使っているが「イントレランス」がまさに平行モンタージュの映画であることからするならばその影響も少なからずあるかも知れない。ハリウッドで映画を撮るグリフィスは『奇妙な同一画面』『持続による同一存在の錯覚』、成瀬目線、エスタブリッシング・ショットの不在、イマジナリーラインのずれ、のような『奇妙』なショットを殊更撮る人ではなく必ずしもドライヤーとそのまま整合するわけでもない。ただグリフィスは「イントレランス」の『分断』36や37のように、さらにそれを進めた「東への道(WAY DOWN EAST)」(1920)における『分断』26で検討しているように、照明の修正された1ショット(のクローズアップ)で『分断』の効果を露呈させる傾向がありドライヤーもまた「サタンの書の数ページ」において照明の修正によるショットを撮り始めたことからすれば「イントレランス」はなにかしらの力をドライヤーに力を与えているのかもしれない。
■ラング、ムルナウとの相違とルビッチ
ここで1918年に撮られたドライヤーのデビュー作「裁判長」と同時期に撮られた3人のドイツ人監督、フリッツ・ラング(オーストリア生まれ)、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ、エルンスト・ルビッチの作品を見てみたい。
改訂・フリッツ・ラング、フリードリッヒ内側からの切り返し表
改訂・ヴィルヘルム・ムルナウ内側からの切り返し表、
改訂・エルンスト・ルビッチの内側からの切り返し表
を提示する。
同時に下に4人の内側からの切り返しの数を提示する
1918
「裁判長」カール・ドライヤー117
「Der Fall Rosentopf(ローゼントップ事件」ルビッチ20 短編
「男になったら(Ich möchte kein Mann sein)」ルビッチ73
「呪の眼(Die Augen der Mumie Ma)」ルビッチ104
「カルメン(Carmen)」ルビッチ 111
1919
「サタンの書の数ページ(Blade af Satans Bog)」カール・ドライヤー 375
「花嫁人形(Die Puppe)」(1919)エルンスト・ルビッチ 137
「ベルリンのマイヤー(MEYER AUS BERLIN)エルンスト・ルビッチ 20
「蜘蛛/第一部:黄金の湖(THE SPIDERS Episode One The Golden Sea)」
フリッツ・ラング 55
「ハラキリ(HARAKIRI)」フリッツ・ラング 19
1920
「牧師の未亡人(Prästänkan)」カール・ドライヤー 308
「白黒姉妹(Kohlhiesel’s Daughters)」エルンスト・ルビッチ199-0
「デセプション(Anna Boleyn )」エルンスト・ルビッチ 468-2
「夜への歩み(Der Gang in die Nacht)」ムルナウ21-2-13-多用。■視点転換。
「蜘蛛/第二部ダイヤの船(THE SPIDERS Episode Two The Diamond Shi)」フリッツ・ラング 35-2-40-多用■視点転換
1921
「吸血鬼ノスフェラトゥ(NOSFERATU: EINE SYMPHONIE DES GRAUENS)」ムルナウ135
「死滅の谷(DER MUDE TOD)」フリッツ・ラング 151
1922
「ドクトル・マブゼ・第一部(DR. MABUSE, DER SPIELER)」フリッツ・ラング242
「ドクトル・マブゼ・第二部:地獄.現代人のゲーム(Dr. Mabuse, Der Spider.Zweiter Teil:INFERNO.Ein Spiel von Menschen unserer Zeit)」(1922.5.26)フリッツ・ラング160
「燃ゆる大地(Der brennende Acker)」ムルナウ139
単純に内側からの切り返しの数を比べただけで同時代におけるラング、ムルナウに対してドライヤーの内側からの切り返しの傾向は飛躍している。ラングが切り返しを多く撮るようになるのは「死滅の谷」(1921)以降、ムルナウは「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1921)以降であり、それ以前の作品においては特にラングの場合、不明確な切り返しが多く未だ「切り返し」という出来事が十分に把握されていないような撮り方をしている。ただラング、ムルナウに共通しているのは切り返しによる『分断』ではなくフルショットから寄りのショットへの転換による1ショットだけの『分断』を頻繁に撮っていることであり、その点においてはドライヤー(グリフィスとも)と異なることはない。ルビッチは同時代にドライヤーと同じように多くの切り返しを撮っている。ムルナウは1888年生まれ、ラングは1890年、ルビッチは1892年、ドライヤーは1889年、ルビッチは一番若いのに対して監督デビューはラング、ムルナウとも1919年、ドライヤー1918年に対してルビッチは1914年と早く、ラング、ムルナウがデビューする前年、ドライヤーは処女作の「裁判長」の『分断』②で主観と客観を交差させた見事な切り返しを撮り、ルビッチも同年「呪の眼」の『分断』⑫でポーラ・ネグリとエミール・ヤニングスを最初と最後に鏡を介した『奇妙な同一画面』に収めあとはすべて内側から切り返してそのまま終わるという絵に描いたような『分断』を撮っている。決して振り向くことなく鏡を通しての視線の絡め合いのみによって撮られているこのシーンは恐怖に凍り付いているポーラ・ネグリのこの映画で初めて撮られたクローズアップが外側からのロングショットで切り返されることによって『奇妙な同一画面』の恐怖をそのまま持続させながら終わっており、人物の配置と鏡による視線、ショットのサイズと内と外との切り返しの方法が一体となって撮られている。ラング、ムルナウは切り返しの映画を拒絶しているわけではなくその後、切り返しの映画を基本的に撮るようになることからすればデビュー当時、1919年当時において少なくとも「切り返し」という分野においてはラング、ムルナウはルビッチ、ドライヤーの後塵を排していることになる。
★世界の映画との比較
さらに上の表を含めて1918、19、20年当時の映画における内側からの切り返しの数を提示する。書かれた数字は内側からの切り返しの数である。
1918
「Der Fall Rosentopf(ローゼントップ事件」ルビッチ20 短編
「男になったら(Ich möchte kein Mann sein)」ルビッチ73
「呪の眼(Die Augen der Mumie Ma)」ルビッチ104
「カルメン(Carmen)」ルビッチ 111
「砂に埋もれて(Hell Bent)」ジョン・フォード 131
「GOOD NIGHT NURSE(キートンとファッティのグッドナイト・ナース)」
アーバックル 79
「HEY THERE(ちょっと、そこ)」アルフレッド・J・ゴールディング 25
「Take A Chance(チャンスをつかめ)」アルフレッド・J・ゴールディング 36
「犬の生活(A DOG ‘S LIFE)」チャップリン 73
「公債(THE BOND)」チャップリン 21
「担へ銃(SHOULDER ARMS)」チャップリン 43
1919
「花嫁人形(Die Puppe)」(1919)エルンスト・ルビッチ 137
「ベルリンのマイヤー(MEYER AUS BERLIN)エルンスト・ルビッチ 20
「蜘蛛/第一部:黄金の湖(THE SPIDERS Episode One The Golden Sea)」フリッツ・ラング 55
「ハラキリ(HARAKIRI)」フリッツ・ラング 19
「死滅の谷(DER MUDE TOD)」フリッツ・ラング 158
「散り行く花(BROKEN BLOSSOMS)」D・W・グリフィス 92
「アルプス颪(BLIND HUSBAND)」(1919.12.7)シュトロハイム168
「デブの自動車屋(The Garage)」アーバックル 95
「サニーサイド(SUNNYSIDE)」チャップリン 5
「一日の行楽(A DAY’S PLEASURE)」チャップリン 46
「Young Mr. Jazz(ヤング・ミスター・ジャズ)」ハル・ローチ 31
「男性と女性(MALE AND FEMALE)」セシル・B・デミル 258-0
「The Monastery of Sendomir(修道院の秘密)」(1919/1920.1.1)ビクトル・シェーストレーム 126
「Polykushka(ポリクシュカ)」(1919/1922.10.31)アレクサンドル・サニン2
1920
「白黒姉妹(Kohlhiesel’s Daughters)」エルンスト・ルビッチ199-0
「デセプション(Anna Boleyn )」エルンスト・ルビッチ 468-2
「夜への歩み(Der Gang in die Nacht)」ムルナウ21-2-13-多用。
「蜘蛛/第二部ダイヤの船(THE SPIDERS Episode Two The Diamond Shi)」フリッツ・ラング 35-2-40-多用
「牧師の未亡人(Prästänkan)」カール・ドライヤー 308-5-88-多い
「霊魂の不滅(Körkarlen)」ビクトル・シェーストレーム342-2-7-多用
「一網打尽(the round up)」ジョージ・メルフォード監督アーバックル主演。338-25■古典的デクパージュ的な人物配置による外側からの切り返しが頻繁に撮られている。
「文化生活一週間(One Week)」バスター・キートン・エディ・クライン共同監督 38-0
「The false road(偽りの道)」フレッド・ニブロ 158-4
「野人の勇(JUST PALS)」ジョン・フォード 241-8
「AN EASTERN WESTERNER(都会育ちの西部者)」ハル・ローチ 75-0
「目が廻る(HIGH AND DIZZY)」ハル・ローチ監督。ロイド主演。59-1
「Karin Ingmarsdotter(イングマールの娘カリン)」(1920.2.2)
ビクトル・シェーストレーム 227-4-0-あり
★この時代、既に(内側からの)切り返しは一般的な方法であり切り返しのない映画を探す方が困難な時代になっている。切り返しがモーションピクチャーの当然の方法として根付き始めたこの時代にデビューするドライヤーは既に切り返しについて多くをイメージしながら処女作を撮り始めている。
■「牧師の未亡人(Prästänkan)」(1920)」『分断』⑥⑧⑩~エスタブリッシング・ショットの不在
「サタンの書の数ページ」(1919)のあとドライヤーはデンマークからスウェーデンへ場所を変え前作と同じキャメラマン、ゲオー・スネフォートと「牧師の未亡人」を撮る。ここでは亡くなった牧師の後任を選ぶために映画の序盤、3人の牧師候補者がそれぞれ教会で模擬説教をするシーンが撮られているが、これらはすべて『分断』されており(『分断』⑥⑧⑩)また教会の空間の関係を示すエスタブリッシング・ショットが撮られていないためにイマジナリーラインが合っているかどうかわからず、かつ殆どの切り返しが正面付近から撮られているために大きなずれを生じさせている。既に処女作「裁判長」『分断』⑧の法廷シーンで見られたエスタブリッシング・ショットが示されない切り返しは「サタンの書の数ページ」で加速的に増加していることを検討したが、エスタブリッシング・ショットの不在はサイレント映画初期の短編ではよく見られる出来事であり、それはフリッツ・ラングの初期の作品においてもある種の「拙さ」として露呈しているが、場所的感覚を喪失させ異質の時空に転換させる傾向が『分断』の大きな特質であることからするならば、そのひとつの要素であるエスタブリッシング・ショットの不在という出来事もまた初期映画に内包された映画の衝動としてあり映画がサイレントからトーキーへ移行した後においても突如として出現する「前衛」として遺されることになる。
★『分断』⑮⑯~キャメラを正面から見据えること+主観ショットと客観ショットとのずれ
夕食の場面では「他に誰か約束した人でもいるのですか?」と未亡人から聞かれたセフレンがキャメラを正面から見据え、内側から切り返された未亡人はキャメラの左側を見ていることからイマジナリーラインがずれているように見える。だがセフレンのキャメラを正面から見据える視線が未亡人の主観ショットだとするとイマジナリーラインは合っていることになる。切り返しの一方の人物だけがキャメラを正面から見据えているケースは『分断』⑯にも見られるが、客観的にはずれているイマジナリーラインが主観的には合致しているという現象がここでは惹き起こされている。
★『分断』32■~逆からの切り返しと窮屈な空間
恋人のマリの寝室に夜這いに行った牧師見習いのセフレンが未亡人に見つかりお腹が痛いので薬を取りに来たと仮病を使ったところ未亡人に苦い薬を飲まされるシーンにおける未亡人への内側からの切り返しが、キャメラを2人の反対側へ回して逆から撮られている。ハリウッド映画ならキャメラの支点はそのままにキャメラを振って切り返されるところがわざわざ2人の逆側の、見たところ非常に狭い窮屈な場所にキャメラを持って行き、さらに未亡人の照明を修正して撮っている。窮屈ということはそのショットだけ少し未亡人を移動させるか装置を解体させて撮っているのかも知れず、何の変哲もない切り返しにおける細部が『別々に撮られている』事実を指し示している。
★『分断』34■~エスタブリッシング・ショットの存在と主観的時空~窮屈な空間
牧師見習いのセフレンと未亡人、セフレンの恋人のマリの3人が椅子に座って仕事をしているシークエンスにおける3人のあいだは、最初と最後の『正常な同一画面』に挟まれた17ショット内側からの切り返しによって分断されている。ここでは同一画面の全景を撮ったエスタブリッシング・ショットの客観性に挟まれながら、周囲をアイリスで暗くした近景から撮られている空間は照明の修正を含めて異質の主観的時空を形成しており、特に未亡人の死を願っているセフレンとマリの企みが2人のあいだのクローズアップによる内側からの切り返しによって主観的に露呈している。これまでとは逆にエスタブリッシング・ショットの存在が却って内側からの切り返しによる主観的時空を際立たせており、さらに狭い空間の中でほぼ正面から撮られているこの切り返しは人やセットをどけて撮らない限り不可能でありまたキャメラを2台置いて同時に撮ることも不可能であることから必然的に1台のキャメラで別々に撮られていることにもなる。一見ただの狭い空間で撮られているように見えながら『分断』における数々の合わせ技がここでも現れている。
★『分断』40■~横からの切り返しと狭い空間
未亡人の身の上話が終わった後、セフレンが未亡人に跪(ひざまず)いて許しを乞うシーンの内側からの切り返しでは照明の修正されたセフレンが横から撮られているがそこにキャメラを置くとベッドに横になっているマリが邪魔になることからここではマリをどけるかベッドごとどけるかセフレンの場所をずらすしかなく、そうして窮屈な撮り方をしながら照明を修正し「その人」を「そのひと」として撮ることの追求をしている。確かに「サタンの書の数ページ」の第二話『分断』⑦においても窮屈な切り返しがなされているが、こうした窮屈な場所に積極的にキャメラを置いて撮るようになるのがこの「牧師の未亡人」からであり『分断』の撮り方にも少しずつ変化が現れている。
■「不運な人々(DIE GEZEICHNETEN)」(1921)『分断』①②65~エスタブリッシング・ショットの不在と逆方向への切り返し
「牧師の未亡人」(1920)をスウェーデンで撮ったドライヤーはドイツへ移り住み「不運な人々」を撮る。革命に揺れるロシアのとある町でユダヤ人女性として生まれた娘ハンネ=リーベの運命が撮られているこの作品における『分断』①②ではエスタブリッシング・ショットが撮られず木の上の者と下の者との場所的関係性が浮遊しているばかりか①ではこちらから見て木の上で右を向いている少年から木の下で右を向いている少女へと切り返されており(「サタンの書の数ページ」第一話『分断』⑥同様の逆方向への切り返し)こういった撮られ方はエスタブリッシング・ショットの不在と同じくサイレント初期の短編においてはよく見られている傾向としてある(その後のドライヤー作品には逆方向への切り返しは存在しない)。さらに『分断』③ではイマジナリーラインがずれ④では主観ショットと客観ショットのイマジナリーラインのずれを生じるこの作品は映画のオープニングのみならずラストシーンにおいてもエスタブリッシング・ショットが撮られておらず(『分断』74)、エスタブリッシング・ショットの不在をさらに進めた『分断』の傾向の極めて強い作品となっている。
★『分断』⑪⑫⑱成瀬目線が飛ぶ~成瀬目線の増加
『分断』⑪⑫では教師と女学生、『分断』⑱ではお見合いの相手の男の成瀬目線が撮られているが、ぎこちない動きで視線が飛び飛びになっている。成瀬目線は画面の外に実際には存在していない者の動きを目で追いかけて偽装する方法であることから目の動きはどうしても飛び飛びになってしまう。成瀬目線の「名づけられ親」の成瀬己喜男の成瀬目線でも多くの場合ぎこちない視線の動きがなされているがそれは中抜きで撮ることが多いとされる成瀬己喜男の『分断』の傾向の一場面でもある。この作品で『分断』の傾向を強く示す成瀬目線が多く撮られていることは『分断』の傾向のさらなる強さを現わしている。その傾向がさらなる強度を増した時、■「吸血鬼(VAMPYR)」(1931)における『分断』⑯のように髑髏(がいこつ)が成瀬目線を使うという事態にまで至ることになる。
★『分断』37~オフオフ
成瀬目線と同じ視線の偽装に『オフオフ』がある。ある者が画面の外に存在すると想定されている2人の人物ABをまずAを見たあと一度視線を切ってから次にBを見るという方法である。これもまた成瀬目線と同じく外部に存在していない人物たちを視線によって偽装する方法であり『外部に実際の人物が存在していない』という点においてその視線の動きは成瀬目線と同じくぎこちなくなりショットを物語への従属から解き放ち露呈させる傾向を内包している。
★『分断』⑲~キャメラを正面から見据えることと2つのイマジナリーライン
ハンネ=リーベの兄の弁護士夫婦の食卓のシーンにおいて最初、新聞を読んでいる夫に対して妻はウエスト・ショットでキャメラの右の方を見て話しかけているがそこから内側から切り返された夫がクローズアップでキャメラを(ほぼ)正面から見据えて妻を見つめるとさらに内側から切り返された妻もまたクローズアップでキャメラを正面から見据えて見つめている。最初はキャメラの右方向を見て夫を見つめていた妻が次はキャメラを正面から見据えて夫を見ている。ここにあるのはイマジナリーラインのずれという形式的なことではなくクローズアップの主観的時空におけるイマジナリーラインの無化である。このシーンは『今日、お母さまから手紙が来たと言っていましたけれど、ご両親は亡くなられていると聞いていたような』という妻の問いかけが発端となっているがこれはユダヤ教徒であることを隠しキリスト教に改宗した夫にとって極めて痛いところを突かれた問いかけであり、お互いキャメラを正面から見据えたクローズアップによる見つめ合いの切り返しは、テーブルの上の狭い空間に置かれたキャメラの位置も相まってそれまでの客観的時空から2人だけの主観的時空への転換として撮られており、その後妻はバスト・ショットとなって再びキャメラの右方向を見て夫を見つめているが夫の視線は同一であることからして、ここにはキャメラを正面から見据える夫のイマジナリーラインに対して妻からの2本のイマジナリーラインが1対2で同時に存在している。「牧師の未亡人」(1920)の『分断』⑮⑯で検討したように客観的にはずれているイマジナリーラインが主観的には合っているという現象におけるイマジナリーラインは1本で1対1だが、ここではさらに飛躍し客観的時空とは別に主観的時空が同時に存在するという1対2の二重事態(2つのイマジナリーライン)が見られている。『分断の映画史・第一部』でこう書かれている。『~グレゴリー・ペックはキャメラの正面を見つめ、切り返されたバーグマンはキャメラの隅を見つめているという場合、ペックのキャメラ目線のショットはバーグマンの見た目の主観ショットであるとは感じられない。グレゴリー・ペックの真正面にキャメラを見つめるショットだけが物語の連結から解かれて露呈しているからだ。端的にヒッチコック●「サイコ」(1960)のラストシーンを挙げてもいい。毛布をかぶったアンソニー・パーキンスはキャメラを抉るように見つめているが、そこにはパーキンス以外の誰もいない。彼はキャメラを物的に凝視しているのだ。映画の人物と同化し物語に浸り切っている観客の目を現実へと惹き戻してしまうこと、これこそハリウッド映画のプロデューサたちが恐れた出来事にほかならない。それがどういうわけか存在してしまう』。確かにキャメラを正面から見据える瞳はキャメラを物的に露呈させる怖さを内包している。果たしてヒッチコックがこのグレゴリー・ペックの視線を主観ショットの意図で撮っているのか否かは不明だが、現実として客観的なイマジナリーラインとは別にもうひとつのラインが存在していることは確かである。それを今回の論文ではひとまず『主観ショット』として検討する。もう一度「ミカエル(Michael)」(1924)で検討する。
★『分断』30~長い『分断』
中盤、革命の戦士を装った皇帝の秘密警察のスパイ(ヨハンネス・マイヤー)があるパーティに出席した時、以前裁判で彼と会ったことのあるハンネ=リーベの兄が(ウラジーミル・ガイダロフ)がその正体を見破るシーンが27ショット内側から切り返され2人が一度も同一画面に収められることなくそのまま終わっている。切り返されているショット数の多さのみならず兄がキャメラを正面から見据え成瀬目線を使う強い『分断』の傾向を指示するショットが積み重ねられているこの『分断』ははっきりと意識されてそのように撮られている。
★『分断』57~逆からの切り返し
亡くなった母親の墓を掘り起こしている男とハンネ=リーベの兄が対峙するシーンにおいて振り向いた男と兄はどちらもキャメラの右側を見ている。ハリウッド映画ならばイマジナリーラインがずれているように見えるこの視線は、どちらも人物のやや左側から切り返されている=逆から切り返されている=ことからイマジナリーラインは合っていることになる。内側からの切り返しと違いこの逆からの切り返しは人物の逆側という「側」へキャメラを移動させることであり必然的に斜めからの切り返しとなり内側で正面から切り返される場合と比べて「ずれ」を生じにくくなるものの、仮に1台のキャメラで撮られているとするならばキャメラを左→右→左→右と振るだけで事足りることをわざわざ逆側に置き換えて切り返すという精神は「インスタント」とはかけ離れている。そうした可能性を探る要素として、成瀬目線、オフオフ、イマジナリーライン、照明の修正等の光線の加減、キャメラを置く場所等(窮屈な場所ならばキャメラは1台だろう、など)を見ることになる。
★『分断』⑨~狭い空間にキャメラを置くこと
ロシア人商人の息子と彼に思いを寄せるハンネ=リーベの学友の娘が小舟に乗り娘がスカートをたくし上げて商人の息子を誘惑するシーンが撮られているがここでキャメラは船首と船尾に位置する2人の中間に置かれて内側から切り返されている。2人が小船の船首と船尾に座っている以上キャメラはあの場所に置かれるしかなく、そうすると正面から切り返さざるを得ないことになり現に娘はキャメラに向かって誘惑の視線を投げかけているのであり、小舟という乗り物には、内側からの切り返し、キャメラを正面から見据えること、が先天的に内包された『分断』を誘惑する資質がある。ムルナウ「サンライズ(SUNRISE)」(1927)では夫が妻を海へ突き落とそうとするシーンでキャメラを小舟の中央に置いて船首と船尾の2人がひたすら内側からの切り返しによって『分断』されて撮られているが、2人が和解した後の帰りの小舟では小舟の外に置かれたキャメラによって2人はすべてのショットにおいて同一画面に収められている。サスペンスを生じさせるためには小舟の中央にキャメラを置き2人を船首と船尾に『分断』させて撮れと言わんばかりの傾向は既にドライヤーにとっては1921年において当たり前のように撮られている。
★評
『分断』が74箇所にも及び始めたこの作品は、エスタブリッシング・ショットの不在。逆方向への切り返し、キャメラを正面から見据える瞳、成瀬目線、オフオフ、イマジナリーラインのずれ、無化、照明の修正、逆からの切り返し、狭い場所の使用などが顕著に現れるようになり視線と『分断』との関係がより自由に撮られ始めている。
★『分断』50、51、52、65~エイゼンシュテイン
「不運な人々」が『エイゼンシュテイン的』になって行くのはサーシャがハンネ=リーベを助けに故郷へ帰るために「党幹部」を説得して汽車に乗り、時を同じくして人々が蜂起して映画が『群衆の映画』へとなってゆくあたりからであり、まさにそれは『エイゼンシュテイン的』なるものそのものだが、「不運な人々」が撮られる1921年当時、未だエイゼンシュテインは処女作「ストライキ(STACHKA)」(1924)を撮っていないのだからエイゼンシュテインが『ドライヤー的』だと言うべきだが歴史家はエイゼンシュテインという権威の味方をしたがるようである。『分断』50、51は茹でられている玉子から革命幹部や同志たちに切り返されることで『革命が沸騰していく(実際は革命ではなくハンネ=リーベを助けに行くのだが)』という意味を読み取ることができ、これは「戦艦ポチョムキン(BRONENOSETS POTEMKIN)」(1925)の眠りから覚める獅子の彫像のモンタージュのように『民衆が目覚めた』という意味を読むことのできるショットの連鎖としてあるが、エイゼンシュテインのモンタージュにおいてそのような「読める切り返し」は主流ではなく、むしろその後の『分断』52における揺り椅子に揺られている男の揺れる運動が党幹部と革命同志たちと切り返される連鎖のように、それだけで前後と結びつけて意味を読み取ることのできないモンタージュこそが主流であり(これも揺り椅子のように革命が揺れる、動き出す、と読めないこともないが)、群衆を扇動した商人の息子が馬車の荷台に乗って街のロータリーから出発する時にふと挿入される少女のクローズアップ、この何の関係もない群衆の「顔」が「顔」ではなく「かお」として撮られているショットこそ『エイゼンシュテイン的』なるものとして考察すべきであり眠りから覚める獅子のモンタージュのように「読める」モンタージュはインテリの知性を満たすだけのものでしかない。エイゼンシュテインはその処女作「ストライキ」(1924)では、ラストシーンでキャメラを正面から見据える労働者の目をクローズアップで撮っているようにキャメラを正面から見据えるショットが50近くあり、人物の場所的不明確性(エスタブリッシング・ショットの不在)、奇妙すぎる同一画面の存在、イマジナリーラインの放棄など、ショットとショットのあいだの分断性を強化させており、『分断』とは意味からの飛躍であることからするならばエイゼンシュテインの本質は意味を読み取るラストシーンの屠殺のモンタージュではなく(これは切り返しではなく平行モンタージュ)、オデッサの階段で落下する乳母車のモンタージュのように奇形的、動物的なショットの『分断』そのものによって成り立っている。論文『分断の映画史・第二部』でエイゼンシュテインについて『エイゼンシュテインのモンタージュはイマジナリーラインも意味も物語も持たない独立した浮遊物を編集によってつなげてゆく作業であり、そこにあるのは極限まで人間味をはぎ取られたショットとショットの繋がり無き「衝突」であり、結果としてつながれてゆく物語は持続性を欠いた吃音的発露となって発散されることになる。』と書き、さらに『内側からの切り返しによって分断されたショットにおける前後の物語からの切断性が強ければエイゼンシュテインとなり、少し弱まるとルビッチになり、ラングになる、そのどちらもが前後の物語から多かれ少なかれ切り離されていることにおいては共通している。映画の手法は限られている。エイゼンシュテインだけがまったく異質の映画を撮ることはあり得ない。』とも書いたが、エイゼンシュテインのモンタージュは『分断』であり『分断』に意味はないのだから衝突はあっても読解はなく簡単に意味を読み取ることのできるエイゼンシュテインのショットの連鎖はむしろ凡庸として片づけなければならない。
★平行モンタージュ(クロス・カッティング)
「不運な人々」では終盤、ロシア人の暴動によって危機が迫ったハンネ=リーベを恋人のサーシャが汽車に乗って救出に向かうシーンが撮られている。平行モンタージュの中でもこれはクロス・カッティングと呼ばれる救出の平行モンタージュでありD・W・グリフィスが「国民の創生(The Birth of a Nathion)」(1915.3.3)、「イントレランス(INTOLERANCE)」(1916)等で多用したことから世界的に影響を与えた方法でもある。発明したのはグリフィスではなく、グリフィスが監督デビューした1908年あたりからあちらこちらでぽつぽつと使われ始め1909年になると当然のようにして根付き始める編集方法であり、特にグリフィスが多用したことでグリフィス=平行モンタージュという言われ方がされたようでもあるが、平行モンタージュは映画が切り返しによって劇的な変貌を遂げる以前の最初の「進化」としての「前衛的」な方法としてあり、エドゥイン・S・ポーターの「大列車強盗(The Great Train Robbery)」(1903.12.7)あたりでも既に使われていてその「起源」は闇の中だが、みずからの映画の編集をずっとしている編集者でもあるドライヤーは処女作から「奇跡」(1954)に至るまで一貫してこの「前衛的」編集方法を多用し続けている。ただ平行モンタージュの一種である救出のクロス・カッティングについては「サタンの書の数ページ」(1919)第四話で白軍が電信技士夫婦の救出に向かうところくらいでしか使われておらず、そのクロス・カッティングにしてもグリフィスのそれほど頻繁にカットバックを重ねてはおらず、むしろドライヤーは救出を抜きにして遠くの時空をカットバックさせる基本的な平行モンタージュを多用している。
■「むかしむかし(DER VAR ENGANG)」(1922)『分断』⑮と⑳~エスタブリッシング・ショットの不在
ドイツで「不運な人々」を撮ったドライヤーはデンマークへ戻りキャメラマン、ゲオー・スネフォートと3度目に組んでのお伽噺の「むかしむかし」を撮る。わがままな王女のお婿さん探しで始まるこの作品では、デンマークの王子が王女の気を引くために精霊から手に入れた玩具や魔法のやかんを王女に見せびらかして誘惑するシーンが撮られている。木陰の木の下に座っている王子が振り回している玩具を見て欲しくてたまらなくなった王女は大勢の侍女たちを引き連れてお城の門のあたりまでやって来て侍女に交渉に行かせるのだが、この門付近の王女たちと木陰の王子との関係を示すエスタブリッシング・ショットが撮られていないためにこのシーンにおける両者のあいだの内側からの切り返しはなんともおかしなことになっている。『分断』⑮では、お城の門に位置する王女たちと木にもたれている王子とはどちらもキャメラの左方向を見ていてイマジナリーラインがずれているように見えるのだが、ただここでもまた逆から切り返されているのでそう見えるだけかもしれないにしても、お城の門に位置する王女たちの視線からして王子は彼女たちから見て左方向の木にもたれて座っているはずだが交渉に行った侍女は彼女たちから見て右方向へ向かって歩いていき右方向から帰って来ているのであり、仮に王女の前を通ることは無礼なので敢えて遠回りしているのだとしても、なんともへんてこな感じに撮られている。さらに『分断』⑳では木にもたれてやかんを叩いている王子とその音を聞きつけ門までやって来てやかんを欲しがる王女とのあいだは、最初王女はキャメラの左を、王子も左方向を見ていてイマジナリーラインがずれているように見えるが、そう見えるのはここでもまた逆から切り返されているからだとしても、次に王子が成瀬目線で王女を追い始める時には王女の位置は変わらないのにもかかわらず王子は右方向から目線を動かしている。この作品のスタジオについては製作者のソフス・マッセンが可能な限り安く借りようと画策したと言われているが、おそらく王女たちが撮られたお城の門と、王子がもたれていた大木とは別々の場所にあるのではないかと推測される。そもそも泉(お堀?)を背景に撮られたあの見事な大木がお城の門からの適した場所に見事にそびえ立っていると思う方がおかしいのであり、ここにはまさに「別々に撮られている」と形容するしかない「ずれ(映画の魔力)」を見出すことができる。
★1920年問題
論文『分断の映画史・第二部』で『1920年問題』について検討した。そこでは『人と人とのあいだを特定の時間が到来するまで『分断』し続ける作品について前回の論文(『分断の映画史・第一部』)で「めまい」(1958)、そして今回は「メトロポリス」(1926)と「大砂塵 」(1954)を検討したが、そのように『ひたすら分断し続けること』の「起源」はムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」、あるいは前年撮られたカール・ドライヤーの「牧師の未亡人」(1920)であり、ルビッチも「寵姫ズムルン」(1920)では分断表⑭でズムルンと商人とが初めて同一画面に収められるまでの③⑤⑥ですべて『分断』し続けて撮っているのであり、ドライヤーの検討は次回以降の論文に譲ることにして、こうした『分断』させ続ける作品が1920年前後に出現しているという事実は『1920年問題』として記憶に留めておきたい。』
と書かれている。ここで紹介されているのは人と人とのあいだの『分断』でありそれが1920年を境にして突如映画の世界に出現した、、と、少々大袈裟な仮説が立てられているが、まず「牧師の未亡人」については誤りでありここにはあてはまらないと訂正する。確かに未亡人と牧師とのあいだは内側からの切り返しにより何度も『分断』されているが「メトロポリス」「めまい」「大砂塵」ほど徹底されてはおらず1920年問題にあてはまるものではない。
■「ミカエル(Michael)」(1924)
デンマークで「むかしむかし」(1922)を撮ったドライヤーは1923年の秋、ベルリンへ渡り初めてキャメラマン、カール・フロイントと組んで「ミカエル」を撮る。
★『分断』⑦
ミカエルと侯爵夫人との出会いのシーンがこの『分断』⑦によって撮られている。高名な画家ゾレに肖像画を書いて欲しいとやって来た伯爵夫人を画家のモデルであるミカエルが初めて見て魅入られるシーンがこの『分断』⑦によって撮られている。ところでミカエルと侯爵夫人とはいきなり『正常な同一画面』に収められていることからこの時点で『1920年問題』における人と人とのあいだの『分断』は解消されている。
★視線
画家ゾレが侯爵夫人の肖像画を描くことになるが彼女の目を描くことができず、それをミカエルが画家の代わりに描いてしまう、という出来事がこの作品の最大のポイントとなるのだが、その流れが視線の微妙な描写によって撮られている。これから検討するのは画家と侯爵夫人、また、ミカエルと侯爵夫人との視線のやりとりである。
★『分断』⑧その1~画家と侯爵夫人との内側からの切り返し
ここではまず画家と侯爵夫人との切り返しについて、A侯爵夫人の肖像画を書くことを画家が断る時、画家だけがキャメラを正面から見据え侯爵夫人はキャメラの左側を見ている。そして次の切り返しでは侯爵夫人が立ち上がりB今度は侯爵夫人がキャメラを正面から見据え画家はキャメラの左側を見ている。これは「牧師の未亡人」(1920)の『分断』⑮⑯で検討した一方だけがキャメラを正面から見据えもう一方は普通の(客観的な)イマジナリーラインで見ている内側からの切り返しであり、そこでは『ここでセフレンのキャメラを正面から見据える視線が未亡人の主観ショットだとするとイマジナリーラインは合っていることになる~客観的にはずれているイマジナリーラインが主観的には合致している』と書いたが、それを前提にするとここではAは侯爵夫人の主観ショット、Bは画家の主観ショットということになり、Aで肖像画を描くことを断っていた画家が、Bの直後=画家が侯爵夫人の瞳を主観ショットで見た直後、画家は突如、侯爵夫人の肖像画を書くことを受け容れている。画家は侯爵夫人の目を主観ショットで主観的に見つめてから肖像画を描くことに決めているがその時、侯爵夫人は画家の目を主観ショットでは見つめていない。ここでの主観ショットは片面的(一方通行)で交わっていない。
★『分断』⑧その2~侯爵夫人とミカエルとの内側からの切り返し
画家が侯爵夫人の肖像画を書くことを承諾した後、侯爵夫人は嬉しそうにミカエルの方へ振り向くとミカエルはほぼキャメラを正面から見据えている。これが侯爵夫人の主観ショットだとするとここで少なくとも侯爵夫人はミカエルの目を見ていることになるはずだがそのミカエルはその前に撮られたショットと同じ方向を見ている。するとこのショットは侯爵夫人を見つめ返すために撮られたショットではないことになりこの時点でも未だ侯爵夫人はミカエルの目を見ていない(かそれがぼかされている)ことになる。
★『分断』⑨
その後、ミカエルが持ってきた照明によって壁に掛けられたミカエルがモデルのヌード絵「勝利者」が照らされそれを3人で見上げるシーンでは侯爵夫人とミカエルとのあいだでの内側からの切り返しが撮られている。相互に照明の修正がなされアイリスで囲まれたクローズアップの主観的時空同士の内側からの切り返しによって「これはあなたね、」と侯爵夫人はミカエルを見つめているがそこから切り返されたミカエルは目を逸らしている。ここでも未だ2人は視線を合わせていない。
★『分断』⑪
絵を見上げている侯爵夫人の背中にミカエルが照明を当てた後、壁に掛けられている全裸でキスをしている絵を3人で見上げるシーンでは、まず侯爵夫人のクローズアップが撮られそこからキャメラを正面から見据えるミカエルのクローズアップへと内側から切り返されている。だがそこから再び内側から切り返された侯爵夫人はふと我に帰ったように目を逸らしてしまい2人は未だ見つめ合っていない。しかし次の侯爵夫人の頭部だけを手前になめて外側から切り返されたショットでは、ミカエルは未だ侯爵夫人の目を見つめているように見えるが侯爵夫人の視線は撮られていないのでここで2人が見つめ合っているかどうかはわからない。そこからキャメラが明るいエスタブリッシング・ショットへと引かれてこの2人だけの主観的時空は一瞬で終わる。この映画で初めて撮られた外側からの切り返しは照明の修正されたこれしかない瞬間として撮られている。この切り返しは2人の見つめ合いを未だ確かなこととして撮らないために外側から切り返されている。
★『分断』⑯
今度は画家と侯爵夫人の視線である。画家が『あなたのお陰で眠れない夜が続いています』と侯爵夫人に述べるシーンで2人のあいだは、7ショット目に侯爵夫人の外側から切り返されて同一画面に収められるまで内側から切り返されている。ここで画家はすべてキャメラを正面から見据えているが伯爵夫人は1、3ショット目ではキャメラの右の方を見て画家の目を見返しているが5ショット目で切り返されると侯爵夫人は慌てて目を逸らしている。ここでは『分断』⑧その1とは逆に1、3ショット目の主観ショットで画家の目を見ていた侯爵夫人がその目を逸らしている。
★ここまで
ここまでは画家と侯爵夫人とはどちらかが一方的に相手の目を主観ショットで見つめているだけで主観ショットが交わってはいない。ミカエルと侯爵夫人とのあいだは、侯爵夫人が一度ミカエルの目を主観ショットで見つめているがすぐに目を逸らしている。視線とは切り返しによって映画的に偽装される出来事だがここまではその視線の主観的交わりが周到に忌避されている。
★『分断』⑳
ミカエルが画家からペンを受け取り侯爵夫人の目を描くシーンにおけるミカエルと侯爵夫人とのあいだは、12ショット目に『正常な同一画面』に収められるまで内側から切り返されている。以下、ここでのミカエルと侯爵夫人の視線について検討する。
1最初にややキャメラの左側を見ている侯爵夫人のミディアムショットが入る。
2次にキャメラの右方向を見ながら侯爵夫人を描いているミカエルへ内側から切り返され、少しだけキャメラがトラック・アップしてゆく(この作品で初めてキャメラの軸が動いた瞬間)。
3次に内側から切り返されたクローズアップで侯爵夫人は1と違って大きく左方向のそっぽを見つめている。
4再びミカエルのバスト・ショットへ内側から切り返されると、彼は二つ前のショットと同じようにキャメラの右側を見ながら描いている。
5ところが再び侯爵夫人へと内側から切り返されると、キャメラを正面から見据えた彼女の「目」だけがクローズアップで切り取られている。
6さらにキャメラがミカエルへ内側から切り返されると、キャメラを正面から見据えているミカエルの瞳へとキャメラがトラック・アップで接近してゆく。
7さらに侯爵夫人へと内側から切り返されると、3と同じように夫人はそっぽを向いていて重たそうな瞳で瞬(まばた)きをする。。
8ミカエルに内側から切り返されると、彼はキャメラを正面からちらっと見ながら視線をキャンバスへ向けて描き始め、キャメラはゆっくりとトラックバックで引かれて絵を描いている彼の右腕も映し出されている。
9最後にノラ・グレゴールは7と同じようにそっぽを向いているショットへと再び内側から切り返されるが、ここで侯爵夫人は重たい瞼をやっと開くようにして目を開け直している。
ここで目を描くシーンは終わる。
1の侯爵夫人はキャメラのやや左側を見ている。その直前にも侯爵夫人はこの視線でミカエルの方を見ていることからこれはミカエルを見ている視線と見ることができる。2でミカエルはキャメラのやや右の方を見ながら絵を描き始める。ところがミカエルが絵を描き始めると3の侯爵夫人は大きくキャメラの左側を見つめている。1は未だ絵が描かれ始める前にミカエルを見ている夫人の視線であり、2でミカエルが絵を描き始めると侯爵夫人は3によって被写体としてのポーズをとって大きく左を向いたと見られる(視線をミカエルから逸らした)。絵を描き始めた瞬間侯爵夫人は目を逸らしているのでここでも2人は見つめ合ってはいない。ところが次の5で侯爵夫人は鼻から下を切り取られた目のクローズアップでキャメラの正面を見据えている。しかし夫人から見てキャメラを正面から見据える方向には誰もいないはずである。するとこれは「牧師の未亡人」(1920)『分断』⑮⑯における一方的主観ショットと同様にミカエルが侯爵夫人の目を見ている主観ショットということになる。次の6では急激にキャメラが寄ったクローズアップでミカエルもまたキャメラを正面から見据えているが、そんな方向には誰も存在していないはずである。キャメラのやや右側を見つめることで侯爵夫人の目を描いていたミカエルがどうしてここでキャメラを正面から見据えるのか。これはイマジナリーラインの間違いという撮り方ではなく意図的に別の視線を創設している。3における侯爵夫人の『画家とモデル』の視線は、モデルがそっぽの方向へ視線を向けてポーズをしている限りその視線において画家と交わることはない。2と4は画家としてのミカエルがモデルとしてそっぽを向いている侯爵夫人を描いているショットとして撮られていると見ることができる。ここでミカエルはキャメラの右方向を見て侯爵夫人の目を描いている。ところが5で侯爵夫人のキャメラを正面から見据える目が撮られると、それに呼応するように6でミカエルはキャメラを正面からはっきり見つめている。キャメラのアングルをミカエルの正面に変化させているのではない。アングルはそのままにミカエルが視線を正面へと移している。それによってここでは誰も存在しない空間を見つめ合っている2人の視線が合って『しまって』いる。『画家とモデル』の関係で撮られている2と4ではミカエルがキャンバスに向かって絵を描いている右腕が撮られているが、キャメラを正面から見据える6ではキャメラがトラック・アップしてミカエルを大きなクローズアップで捉え同時に絵を描いている彼の右腕は画面から消えている。ここでキャメラを正面から見据えているミカエルは画家としての職務を放棄している(正面にモデルは存在しないのだから)。侯爵夫人も5でキャメラを正面から見据えそれまでのモデルとしての視線を放棄している。その一瞬、2人の関係は『画家とモデル』ではなくなり、合うはずのない視線を絡み合わせることで男と女として「主観的に」見つめ合ったことになる。「不運な人々」(1921)『分断』⑲では1対2であったイマジナリーラインがここでは2対2となり客観と主観とが2本の線に分断されて存在している。7でグレゴールは顔の向きをモデルとしてのそっぽの向きのまま目を覚ましたかのように重たそうな瞼を開け、9においてもまた眠っていた目を覚ますように重たそうな瞼を開け直している。彼女は正面を向いた顔を左へと向き直したのではない。ずっと左(モデルのポーズ)を向いていたのである。そこでけだるそうに目を開けた、、ということはそれまで瞳を閉じていたことになる。『分断』⑧ではミカエルの視線が不確かに撮られ『分断』⑨ではミカエルがすぐに目を逸らし『分断』⑪では「ミカエルに見つめられていた」侯爵夫人が我に帰ったかのように目を逸らしている。その後、キャメラが引かれて画家と握手する時に侯爵夫人がふらついているのは『分断』⑪で主観的にミカエルの目を見てしまった侯爵夫人が慌てて目を逸らした(目覚めた)、そのもうろうとした意識を引きずっていたからであり、こうしてぼかされ続けた見つめ合う視線が『分断』20において『画家とモデル』ではなく『男と女』として(心の中で)2人が見つめ合った時、初めてミカエルは侯爵夫人の目を描くことができた、という撮られ方がされている。その布石として『分断』⑧、⑨、⑪によって次第に2人の心の中の視線を接近させていくのとは裏腹に、画家との関係では『分断』⑧で画家が侯爵夫人の肖像画を描くことを決めるシーンでの2人のあいだの切り返しでは、最初の切り返しではキャメラを正面から見据えている画家とキャメラの左側を見ている侯爵夫人とのあいだで切り返され、次に公爵夫人が立ち上がった後、キャメラを正面から見据えている侯爵夫人とキャメラの右側を見ている画家とが切り返されている。キャメラを正面から見据えているショットはその相手からの主観ショットであるとすると画家はキャメラを正面から見据えている侯爵夫人の目を見て(主観ショット)彼女の肖像画を描くことに決めたことになる。だが画家はその時キャメラを正面から見据えてはいないことから画家と侯爵夫人は仮に客観的には見つめ合っているとしても心の中では見つめ合っていないことになり、『分断』⑯においても画家はキャメラを正面から見据えて侯爵夫人の目を見つめようとしているが侯爵夫人はキャメラの右側を見て画家を見ていていることから主観的イマジナリーラインで2人は見つめ合っておらずその侯爵夫人の目もすぐに逸らされてしまうことから画家は侯爵夫人の目を(心で)見つめることができず、それによって画家が侯爵夫人の目を描けない、という事態につながってゆく、というように撮られている。同時期にフリッツ・ラングは「ドクトル・マブゼ・第一部(DR. MABUSE, DER SPIELER)」(1922)の闇カジノにおけるマブゼ博士と検事との対決『分断』29、それ以外にも『分断』⑬、46でマブゼ博士が催眠術をかけるシーンはマブゼ博士のキャメラを正面から見据えるショットによって撮られているように、キャメラを正面から見据えるショットはそれを見ている相手を主観的時空へ引きずり込みもうひとつのイマジナリーラインを構成する影の映画史がここに見られている。ヒッチコックの『分断の映画史・第一部』を引用してキャメラを正面から見据える視線は主観ショットではないのではないかとの疑問を提示したが、確かに『分断』⑳で侯爵夫人がミカエルと主観的に見つめ合った時、侯爵夫人は瞳を閉じていたのであり(7)、そうするとこれは主観ショットではないことになる。おそらくこれは主観ショットとも客観ショットとも違った第三の視線なのかも知れない。
★『分断』⑱~イマジナリーラインの崩壊
ミカエルが侯爵夫人の目を描く『分断』⑳の少し手前、ミカエルを差し置いて画家と侯爵夫人が2人で食事を始めそれにミカエルが憤慨するというシーンが撮られている。帰宅したミカエルは侯爵夫人の白い手袋を見つけてそれを握りしめながら視線を移すとそこにはテーブルで画家と談笑している侯爵夫人の姿が映し出される(ここでは敢えてこれを切り返しの1ショット目として数えている)。これはミカエルの視線との関係からして彼の主観ショット(見た目のショット)として撮られていると見るべきだが手袋を放り投げてミカエルがテーブルの部屋へと入っていくとき、なんと閉められているドアを開けて入ってゆく。するとミカエルとテーブルとはドアに遮られていたことになり主観ショットは幻想ということになる。百歩譲って仮にドアが開いていたとしても、あの主観ショットではテーブルの奥に映っている白いドアを開けて(見た目とは逆方向から)ミカエルは入って来るのであり、方向感覚がめちゃくちゃに撮られている。これが幻想だと指し示すショットはどこにも撮られておらず「撮り間違い」ないしは「編集間違い」でない限り、イマジナリーラインなるものはそもそもドライヤーには存在しないことになる。だが『分断』⑳における「第三の視線」のような瞳を閉じたままの主観ショットがあり得るのならこれはミカエルのイメージショットとしての主観ショットかも知れない。エルンスト・ルビッチ「カルメン(Carmen)」(1918)の『分断』⑯においてもポーラ・ネグリが場所的に見ることのできない相手を主観ショットで見ているシーンが撮られているが、こういう人たちにはこういうことが起こりうるのだろう。
■「あるじ(Du skal ære din hustru)」(1925)
ドイツで「ミカエル」(1924)を撮ったドライヤーは再びデンマークへ戻りキャメラマン・ゲオー・スネフォートと4度目に組んだ「あるじ」を撮る。
★『分断』33、34~狭い空間
働き者の妻に文句ばかり言う亭主を懲らしめるために家族と友人が協力して妻を実家に帰して夫を困らせ反省させるというこの映画でドライヤーは二間続きの本物の小さいアパートで撮影しようとしたが技術的に不可能と分かり撮影所の敷地内にアパートのセットを作らせ水道、電気を引かせストーブにも本当の火がつけられて撮られたという通り極めて狭い空間で撮られていて、それは「内側からの切り返し表」で■のつく箇所が多いことでも見てとれる。オープニングでこそ毎日の家事をしている妻を通じてリビングとテーブル、寝室、二つのドアと柱時計の位置などがそれとなくエスタブリッシング・ショットによって把握できるものの夫が居間に登場すると一気に時空は分断され■とエスタブリッシング・ショットの不在を連発するようになる。狭い空間を広く見せるにはエスタブリッシング・ショットを撮らずに被写体に接近し、アイリスでさらに狭くし、内側から切り返して『分断』し、同一空間は逆方向のアングルから撮ればまったく違った空間に見せられる、、というような方法がここに貫かれている。『分断』33ではとうとう怒りの爆発した夫が乳母の鳥籠を投げようとして乳母と娘に止められるシーンが撮られているが、ここでの三人の位置関係がエスタブリッシング・ショットの不在によって浮遊して誰がどこにいるのか眩暈を惹き起こしそうな撮られ方がされている。だが夫が「改心」したあとは次第に『エスタブリッシング・ショットの不在』は影を潜めてゆきラストシーンでは初めて家族で並んだテーブルのエスタブリッシング・ショットが撮られているように、サスペンスとエスタブリッシング・ショットの不在とはサスペンスと『分断』と同じように連動している。
★『分断』57~エルンスト・ルビッチとの接点
終盤、帰って来た妻が夫と抱き合う時、夫の真後ろから夫の首に巻きつく妻の「手だけ」が撮られているが前年ルビッチ「結婚哲学(The MARRIAGE CIRCLE)」(1924)では患者のマリー・プレヴォーが医者のモンテ・ブルーに抱きついている時に同様のアングルからマリー・プレヴォーの「手だけ」が撮られている。これはモンテ・ブルーの友人の医者クレイトン・ヘイルからの主観ショットとして撮られており、ヘイルはモンテ・ブルーが妻と抱き合っていると思って気を利かせて部屋を出るが隣のドアを開けると妻がソファーに座っていた、といういかにもルビッチらしい気の利いたシーンであり、ドライヤーはそうした設定を抜きにして純粋に首に手を回すシーンだけを「拝借」している。
★ビクトル・シェーストレーム~エルンスト・ルビッチ~グリフィス
ルビッチの「引用」が出てきたのでここでD・W・グリフィスの外にドライヤーの口から影響を受けたと語られているビクトル・シェーストレームについて検討する。「生恋死恋(Berg-Ejvind och hans hustru)」(1917・原題訳ベルク・エイヴィンドと彼の妻)ではその70数分過ぎ、主人公ヴィクトル・シェーストレームの親友(ジョン・エクマン)が海から帰って来ると、桶に向かって屈んで洗濯をしているシェーストレームの妻(エディス・エラストフ)の露わになった乳房を親友が盗み見する(主観ショット)シーンが撮られている。これは「裁判長」(1918)の『分断』③における胸を露わにした洗濯女のショットそのものであり、その後のシェーストレームと親友との運命を決定づけるショットでもあることにおいて裁判長の祖父の運命と重ねられている。「生恋死恋」の封切はスウェーデンの1918年1月1日、デンマーク同年1月25日、「裁判長」が撮られるのは1918年5月から7月までと言われているので可能性としては十分あり得る。同じくシェーストレーム「Karin Ingmarsdotter(イングマールの娘カリン)」(1920)において52分頃(YouTubeで見られる版だと45分頃)、二人目の亭主が酔っぱらい達と酔って帰って来てアコーディオンを持ち出して部屋に入って行った時、2つのドアの枠でコーナーを撮った額縁のようなショットが撮られているが「牧師の未亡人」(1920)『分断』32では牧師見習いのセフレンが未亡人から苦い薬を飲まされた後、キャメラがドアの外まで大きく引かれるとここでも額縁に縁取られた絵画のようなショットが撮られている。「イングマールの娘カリン」の封切は20年2月2日スウェーデン、「牧師の未亡人」は1920年10月4日スウェーデンとなっている。ところがエルンスト・ルビッチもこの1920年、「デセプション(Anna Boleyn )」(1920)の『旧版内側からの切り返し表』の『分断』⑤(16分過ぎ)の4ショット目にキャメラがドアの外に引かれて撮られた奥のアンナ・ブーリン(ヘンニ・ポルテン)と手前で振り向いている王(エミール・ヤニングスドア)とのショットもまたドアを額縁のようにして撮られている。この作品の封切はドイツ1920年12月3日、デンマーク4月11日、スウェーデン4月18日となっている。さらにまた「イングマールの娘カリン」では中盤、主人公の娘の父親が河の急流を流されてゆくいかだを川に入って竹竿で引っかけて岸へ引いてゆくという危険なスタントシーンが撮られているが、この封切は20年2月2日スウェーデンであり、リリアン・ギッシュが流氷の上で激流に流されるD・W・グリフィス「東への道」の封切は1920年9月3日アメリカとなり、どちらが先かという「起源」はさらにそこから遡る可能性が大きいのでここでは置いておくとして、すべて同じ1920年に封切られているという事実にこそ震撼すべき何かが隠されている。
■「グロムダールの花嫁(Glomdalsbruden)」(1925)
★『分断』①~④
デンマークで「あるじ」(1925)を撮ったドライヤーはまたしても場所を変えノルウェーで「グロムダールの花嫁」を撮る。50分ほどフィルムの欠落しているこの作品は、室内劇とされる「ミカエル」(1924)「あるじ」(1925)から一転して外へ出てノルウェーの瑞々しいロケーションの中で撮られている。映画が始まってしばらくすると、川向うの農場で畑を耕している小作人の息子トーレの元に恋人のペリトが小舟でやって来て、用水路を掘り起こしている彼を見つけると、焚火の煙の匂いまで漂って来そうな自然の中で彼と同一画面に収められ(『分断』①)、彼女はちょっとからかったような顔つきで『話す時間あるかしら?』と尋ねると『僕には休んでいる時間なんかないんだ』と答える青年へ逆から切り返されながら、青年は言葉とは裏腹に作業の手を休め、水路から上がって来て手を差し出し娘と握手する(『分断』②)。おそらくこの2人は毎日『話す時間あるかしら?』→『冗談じゃない、見ればわかるだろう、僕には休んでいる時間なんかないんだ』といった儀式をルーティンとしてこなしてから握手をして話し始めるらしく、それは『僕には休んでいる時間なんかないんだ』と言った直後に作業の手を休める青年が自分の言葉とは裏腹に心理的なよどみも葛藤もなく水路から上がって来て娘と握手をするそのしなやかな運動によって現わされている。だからこそ娘はからかったような顔つきで『話す時間あるかしら?』と尋ねているのであり、後に検討する「あるじ」(1925)のオープニングで淡々と家事をしている妻のカーリン・ネレモーセが365分の1日の出来事として撮られているように、2人は毎日この儀式をこなしているのだという親密さを無意味なセリフとしなやかな運動のみによって現わしている。このあと2人はこの焚火の匂いの香る農場で『牧場にはまだ若い奥さんがいないんだ、、』と青年が呟くと娘『探さないとね。』。青年『実はもう見つけたんだ、、でも彼女はたぶん僕を待ってないみたい』、娘『彼女に聞いてみなさいよ、』、、これを聞いたトーレは大喜びで『よし、でもまだ早い、僕には仕上げなくっちゃならない仕事がある!』と仕事に戻ってゆき2人は知らぬ間に結婚の約束を交わしている(『分断』③)。この2人は直接にものを言うことができないらしい。ここでも『分断』②と同じように実に回りくどい言葉によってお互いの愛を確かめ合っているのであり、フィルムは2人がそのような間接的な言葉によって親密なコミュニケーションを交わせる関係にあることを焼き付けている。喜び勇んで作業を再開した青年に娘は近づき『わかったわ、これからあなたの邪魔はしないわね』、と言うが彼が仕事に集中していて聞こえないふりをしていると見るやさらに近づき『あなたの邪魔はしないから、わかった?!』(字幕はないがおそらくこう言っている)と邪魔をして詰め寄ると青年にスコップで泥をひっかけられて追い払われ、怒ったふりをして帰ってゆく娘は振り向いて手を振ると青年は『日曜に逢おう!』と手を振り返しさらに娘はエプロンをはためかせながらもう一度手をぱたぱた振り返し青年は作業に戻っていく(『分断』④)。このシークエンスはロケーションの時空における『分断』と運動と言葉の合わせ技で2人の親密さをフィルムに焼き付けた一つの短編映画として成り立っている。才能とは残酷である。
★D・W・グリフィス「東への道(WAY DOWN EAST)」(1920)とマクガフィン
終盤、結婚式へ向かう小作人の息子トーレが恋敵に船を流され代わりに馬で激流の川を渡ろうとして流されるシーンはD・W・グリフィス「東への道」で流氷に乗ったリリアン・ギッシュが激流に流されるシーンをイメージさせるがそれを『分断』させた撮り方においても両者は共通し(『分断』43)これもまたドライヤーがかねがね語っているグリフィスとの接点を見るうえでの細部としてあるかも知れず、先に検討したスウェーデンの監督ビクトル・シェーストレーム「Karin Ingmarsdotter(イングマールの娘カリン)」(1920)での主人公の娘の父親の河の急流での危険なシーンにも呼応しているかもしれない。ところでこの作品において小作人の息子の家は彼の恋人のペリトの家とは川を隔てた川向うにあり、それによってこの終盤、どうしても結婚式へ行きたい小作人の息子による激流を渡るシーンが撮られることになることから、家の配置自体がマクガフィンであり、かつ2人の結婚もまたマクガフィン色の強いものとなって現れてくる。そうまでしてこの急流のシーンを撮りたいという意志がこうしたマクガフィンの配置によって伝わって来る。
■「裁かるるジャンヌ(LA PASSION DE JEANNE D’ARC)」(1927)
ノルウェーから今度はフランスへ渡って撮ったのが「裁かるるジャンヌ」であり、映画を見始めて行くといつもだと幾つかの『正常な同一画面』が撮られてから内側からの切り返しが始まりまた『正常な同一画面』へと戻ってゆくのだがこの作品は逆になっている。『正常な同一画面』が『不正常』であり『分断』と『奇妙な同一画面』が『正常』になっている。それに気づいてから今度は切り返しではなく同一画面が幾つあるかに焦点を当てて見直してみる。
★計測方法 『正常な同一画面』と『奇妙な同一画面』が1ショットに融合している場合『正常な同一画面』1ショットとして計測する。『内側からの切り返し表』においては同一画面の有無は内側からの切り返しの過程で生じたショットだけを累計しているがここでは切り返しに限らずすべての同一画面が計測されている。字幕を挟んだ同一画面(同じ持続するショットに字幕が挟まれ同一画面が2ショットになる時)は1ショットとして計測している。ただこの作品における同一画面で字幕の挟まれたものは1ショットも撮られていない。
①審問前
1ジャンヌ(ルネ・ファルコネッティ)の出のショットで、ジャンヌと修道士(アントナン・アルトー)が『正常な同一画面』に収められている。しかし同じショットでは、ジャンヌと槍を持った兵隊の「手だけ」が同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。
2その後、ジャンヌとアントナン・アルトーの「肩だけ」が同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。
3さらにその後、アントナン・アルトーとジャンヌとが『正常な同一画面』に収められている。しかし1の『正常な同一画面』同様、同じショットでジャンヌと槍を持った兵隊の「手だけ」が同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。1ショットにおいて『正常な同一画面』と『奇妙な同一画面』とが融合している。
4~5その後、ジャンヌと槍を持った兵士のぼやけた姿が2ショット同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』。
■ここまで 同一画面全5ショット(1と3が重複)
『奇妙な同一画面』と融合した『正常な同一画面』が2ショット。
『奇妙な同一画面』が3ショット。
★エスタブリッシング・ショット オープニングで傍聴人席の上からキャメラが右へ移動して(横移動✕)して撮られているがその後ジャンヌが現れる空間は撮られておらずまた横へ移動していくことから全景はまったく撮られていない。ジャンヌと判事席、傍聴人席が同一画面に収められたショットは1ショットも撮られていない。
②審理開始
1宣誓のための聖書を持って来た男の「左腕だけ」とジャンヌとが同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。
2その後、被告人席に座ったジャンヌと左奥のぼやけた兵士の「左半身だけ」が同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。
3~4 審問が開始してしばらくしてジャンヌの発言に法廷が動揺した時、ジャンヌと判事(モーリス・シュッツ)と兵隊たちが2ショット『正常な同一画面』に収められている。
5 「これは神への冒涜だ」と叫んだ審問官とジャンヌとが『正常な同一画面』に収められている。
6~8 その直後、ジャンヌとその審問官の「口だけ」が3ショット同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。
9~11 頭を剃った審問官が地面にひれ伏している「頭だけ」と鎖でつながれたジャンヌの「足だけ」が3ショット同一画面に収められている(『ダブルで奇妙な同一画面』。
12 21分。審理が終了してジャンヌが独房へと向かう時、ジャンヌとアントナン・アルトー、兵士たちとが『正常な同一画面』に収められている(ただし一瞬でカットされてしまう)。
★ここまで 同一画面12ショット=計17ショット
『正常な同一画面』4ショット(計6ショット)
『奇妙な同一画面』8ショット(計11ショット)
★エスタブリッシング・ショット なし。極めて珍しい現象。
★評
ここまで内側からの切り返しが237ショット撮られているのに対して同一画面が17ショットしか撮られていない。大部分のモーションピクチャーは同一画面を主として進められてゆくのに対して同一画面の少なさは異常に際立っている。さらにジャンヌと判事席、傍聴人席を同一画面に収めたショットは1ショットも撮られていない。最も「広い」ショットはジャンヌが同房へと連行される時の12で、ジャンヌとアルトー、兵士たちが同一画面に収められているこのショットでは法廷の入り口と向こう側の壁の位置関係が見えるだけで被告人席と判事席の位置関係はまったくわからない。
④ 独房にて
1~3 1独房でジャンヌの右手の薬指にはめられた指輪を男が奪う時ジャンヌと『正常な同一画面』に収められている。2その直後、ジャンヌの腕をねじ上
げる男とジャンヌの「腕だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、
3さらにジャンヌの指輪をはずす男とジャンヌの「腕だけ」が同一画面に収めら
れている(『奇妙な同一画面』。
4その直後、審問官(モーリス・シュッツ)がやってきて男から指輪を奪い返しジャンヌに返す時、シュッツとジャンヌの「手だけ」が同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。
5~6独房で男がジャンヌの頬を棒で突く時、ジャンヌと「棒だけ」が2ショット同一画面に収まっている(『奇妙な同一画面』)。「手だけ」を通り越し「手」すら画面に入らない奇妙な画面。
7さらにその男がジャンヌの頭に冠をかぶせるとき、ジャンと男の「手だけ」が同一画面に収まっている(『奇妙な同一画面』)。
8さらにその男がジャンヌのあごを掴む時、ジャンヌと男の「手だけ」が同一画面に収まっている(『奇妙な同一画面』)。
9さらにその男がジャンヌのあごをしゃくりあげるときジャンヌと男の「手だけ」が同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。
10さらにその男がジャンヌに矢を持たせるとき、ジャンヌと男の「手だけ」が同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』。
11その後、やってきたアントナン・アルトーがジャンヌの冠と矢を取ってやる時、ジャンヌとは『正常な同一画面』に収められている。
★ここまで 同一画面11ショット=計28ショット
『正常な同一画面』2ショット(計8ショット)
『奇妙な同一画面』9ショット(計20ショット)
★エスタブリッシング・ショット 審問官の男が独房を右から左へと三歩ほど横切るところをパンニングで捉えたショットによって独房の入り口と数人の審問官との場所的関係が見えるだけでその外はすべて内側からの切り返しによって部分的に分断され人々の位置関係がまったく把握困難のように撮られている。
④拷問室へ
1その後、アントナン・アルトーと共に拷問室に入って来たジャンヌと多くの審問官たちの後ろ姿とが、アルトーとの関係では『正常な同一画面』に、後ろ姿の審問官との関係では『奇妙な同一画面』に収まっている。
2その後、男が椅子を地面に置く時、ジャンヌの「足だけ」と男の「手だけ」が同一画面に一瞬収められている(『ダブルで奇妙な同一画面』)。
3~4異端宣誓所に署名を強要されるとき、ジャンヌの「手だけ」と審問官の「手だけ」が2ショット同一画面に収められている(『ダブルで奇妙な同一画面』)。
5~7 5、6拷問の機械の前でジャンヌと2人の審問官とが2ショット『正常な同一画面』に収まっている。7さらにその直後、審問官とジャンヌの「顔の一部だけ」が同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。
8ジャンヌが失神する時、倒れかけるジャンヌの顔と審問官の「胴体だけ」が同一画面に一瞬収まっている(『いかにも奇妙な同一画面』)、
9失神して横たわっているジャンヌと近づいて来た審問官たちの「足だけ」「胴体だけ」が同一画面に撮られ顔が画面の中に入ろうとする瞬間にカットされている(『いかにも奇妙な同一画面』
★ここまで 同一画面9ショット(1は重複)=計37ショット
『正常な同一画面』3ショット(その内1の『奇妙な同一画面』と融合した『正常な同一画面』が1ショット(計11ショット)
『奇妙な同一画面』6ショット(26ショット)
★エスタブリッシング・ショット 1でアントナン・アルトーと共に拷問室に入って来たジャンヌと多くの審問官たちの後ろ姿とが同一画面に収められ、次のパンニングのショットが加わることで拷問室のおおよその空間を把握できるがそれもすぐにカットされてしまい全景を見渡すことのできるショットは撮られていない。
⑤再び独房へ
1~2 2人の審問官と、彼らに抱えられて運ばれるジャンの「逆さまの顔だけ」が2ショット同一画面に収まっている(『奇妙な同一画面』)。
3~5その後、ロングショットで撮られたベッドで寝ているジャンヌの「横顔だけ」と男たちが3ショット同一画面に収まっている(『奇妙な同一画面』)。
6~9その後、採血する医者とジャンヌの「右腕だけ」4ショットが同一画面に収められている。(『奇妙な同一画面』)。
10その後、ジャンヌの寝ている部屋に入って来た審問官と手前のジャンヌの「後頭部のてっぺんだけ」が同一画面に収まっている(『世にも奇妙な同一画面』)。
11その後、部屋に入って来た大勢の審問官たちとジャンヌの「左腕と後頭部のてっぺんだけ」が同一画面に収まっている(『世にも奇妙な同一画面』)。
12その後、審問官の手を握ろうとして拒絶されるジャンヌの「右手だけ」が審問官と同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。
★ここまで 同一画面12ショット =49ショット
すべて『奇妙な同一画面』12ショット(計38ショット)
★エスタブリッシング・ショット 独房へ運ばれる時に独房の入り口とベッドが同一画面に収められている。さらに審問官たちが独房へ入って来るときにも手前にジャンヌの「頭だけ」が見えるベッド、奥に審問官たちの縦の構図が2ショット撮られている。縦の構図自体この作品では撮られていないことからしてこれがエスタブリッシング・ショットらしきショットと言えるかもしれない。
⑥墓地へ
1~2墓地へと担架で運ばれるジャンヌと兵士たちが2ショット『正常な同一画面』に収められている。その2ショット目にはアントナン・アルトーと担架で運ばれるジャンヌとが一瞬だけ『正常な同一画面』に収められている。ただ、二人とも「その人」と特定できるものの寝そべったジャンヌとの一瞬の同一画面は奇妙な『正常な同一画面』ともいうべきものである。
3アントナン・アルトーに付き添われて階段へ向かうジャンヌが一瞬、『正常な同一画面』に収められている。ただ、二人とも「その人」と特定できるものの一瞬であり奇妙な『正常な同一画面』ともいうべきものである。
4アントナン・アルトーに促されて椅子に座らされるジャンヌの後ろ姿が同一画面に撮られている(『奇妙な同一画面』)。
5その直後、アントナン・アルトーと椅子に座ったジャンヌの「後頭部だけ」が一瞬、同一画面に撮られている(『奇妙な同一画面』)。
6署名させるためにジャンヌを椅子から立ち上がらせようとする「誰かの手だけ」とジャンの肩に添えられる「誰かの手だけ」がジャンヌと同一画面に撮られている(『奇妙な同一画面』)。
7~13ジャンヌが異端の書面にサインする時、ジャンヌの「手だけ」と審問官の「手だけ」が7ショット同一画面に収まっている(『世にも奇妙な同一画面』)。
★ここまで 同一画面13ショット=計62ショット
『正常な同一画面』3ショット(計14ショット)。
『奇妙な同一画面』10ショット(計48ショット)。
★評 ここまで内側からの切り返しが833ショット。その殆どが『分断』と評価すべき切り返しである。
⑦再び独房へ
1~5ジャンヌが頭の毛を切られている時、ジャンヌと剃っている男の1「手とあごだけ」が2「手とぼやけた顔」が3「手と顔の一部だけ」が同一画面に撮られ(『奇妙な同一画面』)、その後に4→2人の『正常な同一画面』が撮られている。さらにその後、⑤独房を出て行く男とジャンヌとが一瞬『正常な同一画面』に収められている(奇妙な『正常な同一画面』)。
6~7告解をするジャンヌと、それを聞いているアントナン・アルトーとが2ショット『正常な同一画面』に撮られている。
8 さらに子供たちの前で祈りをささげるジャンヌとアントナン・アルトーとがロングショットでややぼやけていながらも『正常な同一画面』に収められているが、ジャンヌに聖体を授けている審問官は「胴体の右半分だけ」がジャンヌと同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。同じショットで画面左手前の兵隊たちは「その人」とは特定できない(『奇妙な同一画面』)、さらに右手前の審問官と奥のジャンヌとは縦の構図で『正常な同一画面』に収められている。ジャンヌとの関係で人物の場所的関係が分かる「エスタブリッシュショット」ともいうべき唯一のショットがこの『正常な同一画面』である。
9ジャンヌと彼女の口に聖体を授ける審問官の「手だけ」が同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。
10 処刑のための服を投げ置く男の「手だけ」がジャンヌと同一画面に捉えられる(『奇妙な同一画面』)。
11~13 11、12その直後、その男とジャンヌとが2ショット『正常な同一画面』に収められる。13さらにその直後、その男とアントナン・アルトーとがジャンヌと『正常な同一画面』に捉えられるがもう一人の審問官は後ろ姿で「その人」と特定できない(『奇妙な同一画面』)。
★ここまで 同一画面12ショット(8と12は重複)=74ショット
『正常な同一画面』7ショット(その内『奇妙な同一画面』と融合した『正常な同一画面』が2ショット)=計21ショット
『奇妙な同一画面』5ショット=計53ショット
★エスタブリッシング・ショット
①告解をするために子供たちが独房に入って来るとき入口が撮られているが独房の全景は撮られていない。
②→8参照。その後、告解をしている時、ジャンヌとの関係で人物の場所的関係が分かる「エスタブリッシュショット」ともいうべき唯一のショットがこの『正常な同一画面』である。
⑧ 火刑台へ
1~3 1、2、3火刑台へと向かうジャンヌと槍を持った兵士とが3ショット同一画面に撮られている (『正常な同一画面』)。3さらにその3ショット目でジャンヌに駆け寄る老婆とジャンヌとがやや不十分ながらも『正常な同一画面』で撮られ(以上1~3)、その3ショット目でその直後よりはっきりした形でその老婆とジャンヌが『正常な同一画面』に収められ、さらにその持続したショットの中で老婆が去った後アントナン・アルトーが現れジャンヌと『正常な同一画面』に収まる。
4~7 4ジャンヌを立たせて火刑台に縛り付けようとする男とジャンヌとが、持続したショットの中で男の「手と胴体だけ」「一瞬の顔だけ」「一瞬の横顔だけ」と同一画面に撮られている(『奇妙な同一画面』)。5その直後、ナイフをくわえたその男とジャンヌとが一瞬同一画面に撮られている(『奇妙な正常な同一画面』)。6さらにその後、ナイフをくわえた男とジャンヌの「下半身だけ」が同一画面に撮られている(『奇妙な同一画面』)。ここでは男がはっきりと「その人」と特定できるように撮られているが、そうすると今度はジャンヌが「下半身だけ」なってしまう。7さらにその男がジャンヌの体にロープを巻き付けるためにジャンヌの前を通り過ぎる一瞬の後ろ姿が持続したショットで二回同一画面に収まっている(『奇妙な同一画面』)。
★ここまで 同一画面7ショット(3は重複)=系81ショット
『正常な同一画面』4ショット(その内『正常な同一画面』と『正常な同一画面』の重複1ショット)=計25ショット
『奇妙な同一画面』3ショット=計56ショット。
★エスタブリッシング・ショット 火刑台のジャンヌとそれを見守る者たちを同一画面に収めたショットは1ショットも撮られていない。
★累計
『正常な同一画面』25ショット、『奇妙な同一画面』56ショット、合計81ショット
★「裁判長」(1918)における同一画面の比率を見てみると
『正常な同一画面』116+『奇妙な同一画面』21-2(重複) 合計137
主人公以外の回想ではその回想における主人公を基準にして計測している。最初の回想では父親、次の回想は裁判長、裁判と回想は裁判長の娘を基準にした。
総ショット数との比率で見てみると「裁判長」は588ショットなので137を588で割ると=0.233となる。
★「裁かるるジャンヌ」は同一画面の総数が81なのでそれを総ショット数の1511で割ると=0.0536%
★「市民ケーン(CITIZEN KANE)」(1941)はどうかというと、『正常な同一画面』94と『奇妙な同一画面』63= 計157ショット 総ショット数が620ショットなのでそれで割ると=0.25%となる。いかに「裁かるるジャンヌ」の同一画面が少ないかが見てとれる。常軌を逸した少なさである。
★アントナン・アルトー
アントナン・アルトーとは『正常な同一画面』が11ショット、『奇妙な同一画面』が3ショット撮られている。25ショットしかない『正常な同一画面』の内11ショットがアントナン・アルトーというシュルレアリストが占めているのは何かの縁だろうか。
★横移動✕と『持続による同一存在の錯覚』。
この作品には人物を追うことなくキャメラだけが横へ動くショットが33ショット撮られている。以降、この方法を、横へ移動する人物をキャメラが同じように横に移動して撮る『横移動』とは別に横移動✕として今後は検討する。この撮影方法は仮に右への横移動だとすると、右への空間を拡大させながら同時に左の空間は失われていく撮り方であり、そもそも移動撮影とは基本的にそういうもので被写体に接近すればするほどこの傾向が顕著になる。その中でも横移動✕は「吸血鬼」で検討するパン✕と同じように『持続による同一存在の錯覚』を撮ることにつながり『分断』の傾向を秘めた方法といえる。ドライヤー作品においてキャメラの軸がそれなりに動き始めたのは「あるじ」(1925)からで特に港を歩いている父親を横移動で捉えたショットがドライヤー初の本格的な移動撮影となるのだが「裁かるるジャンヌ」はそのようなトラッキングはおとなしくなる代わりに横移動✕が裁判官のあいだで33ショット撮られている。一見広がっているように見えながら実はちっとも広がっておらず、精神的には狭まって行くような感覚、それが横移動✕であり、この作品の『分断』の傾向は内側からの切り返しのみならずあらゆる方法において実現されている。
★クローズアップ675ショット。
「裁判長」27
「サタンの書の数ページ」136
「牧師の未亡人」88
「不運な人々」108
「むかしむかし」35
「ミカエル」117
「あるじ」128
「グロムダールの花嫁」18
「裁かるるジャンヌ」675
「吸血鬼」62
「怒りの日」73
「奇跡」9
「ガートルード」6
この表だけを見ても「裁かるるジャンヌ」におけるクローズアップの数は群を抜けている。横移動✕と同じようにクローズアップに寄ることで空間を狭めるという試みはそれが内側からの切り返しによる『分断』、エスタブリッシング・ショットの不在、それらが1ショット3.7秒の高速のカッティングによって転換されることで見ている者たちは殆ど平衡感覚を失わせられるように撮られている。
★ロベール・ブレッソン
『真実のないとき、観客は虚偽に執着する。ドライヤーの映画でファルコネッティ嬢がまなざしを天に投げ、観客の涙を強要するあの表現主義的な手法』(シネマトグラフ覚書178)とブレッソンは「裁かるるジャンヌ」を否定しドライヤーもまた『ブレッソンの映画は一本も見ていません』と答えている(作家主義410)。
■「ジャンヌダルク裁判(PROCES DE JEANNE D’ARC)」(1962)~ブレッソン
『ロベール・ブレッソン内側からの切り返し表』を提示する。ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」に対する否定的要素から撮られたかどうかは別にして、この作品はほぼ100%、ジャンヌと彼女に質問する裁判官たちとの切り返しによって撮られている。まず結論から言うと、345回ある内側からの切り返しと38回撮られた外側からの切り返しの内、ジャンヌと彼女に質問している裁判官との『正常な同一画面』は1ショットも撮られていない。ジャンヌと彼女の後方に位置する傍聴人、その他の者たちとの『正常な同一画面』は89ショット撮られているが、ジャンヌに対峙し、向き合い、彼女に尋問する裁判官たちとの『正常な同一画面』は1ショットも撮られていない。あの『分断』の頂点である「裁かるるジャンヌ」ですらジャンヌと彼女に質問する裁判官たちとの『正常な同一画面』は幾つも撮られている。だがこの「ジャンヌダルク裁判」では映画の大半を占めるジャンヌと彼女に質問する裁判官たちとの切り返しにおいて『正常な同一画面』が1ショットも撮られていない。これがブレッソンの答えなのか。「ドライヤーよ、君は『正常な同一画面』を撮りすぎているよ」と。『奇妙な同一画面』にしても外側から切り返された結果としてのものが多くあるが、外側からの切り返しはすべて『奇妙な同一画面』になっており、外側からの切り返しとは『奇妙な同一画面』を撮るために為されていると断定できる。余りにも奇妙な『奇妙な同一画面』が多すぎる。クローズアップは3ショットと「裁かるるジャンヌ」より圧倒的に少なく平行モンタージュもNO18のジャンヌ不在の法廷における裁判官同士の対決くらいしか撮られておらず、キャメラを正面から見据えているショットも9ショットと少なくその内ジャンヌのキャメラを正面から見据えるショットは1ショットも撮られていない(ロングショットで見ているショットはある)。逆に『古典的デクパージュ的人物配置』からの外側からの切り返しが7ショット撮られている(14参照)。これがブレッソンの解答なのか。そうは見えない。彼は「裁かるるジャンヌ」におけるジャンヌの心理的な表情について批判している。そこからクローズアップが殆ど撮られずジャンヌ役のフロレンス・カレーズは「裁かるるジャンヌ」のジャンヌ役のルネ・ファルコネッティと異なり微塵も心理的な顔をせず涙を流すにしても表情を抑えている。だが『分断』については進められている。ここまで『分断』を貫いた作品は見たことがない。はっきりと意識してそのように撮られている。これはいったいどういうことだろう。冒頭のブレッソンの文章は『シネマトグラフ覚書』の中の1960年から74年までに書かれた「その他の覚書」の中に掲載されているものの具体的にいつ書かれたかはわからない。もし「ジャンヌダルク裁判」(1962)を撮った後に書かれたものだとすると、随分とすっとぼけて書かかれている。何故ならば「裁かるるジャンヌ」(1927)にとっての『分断』とはまさに作品の「肝(きも)」だからであり、それをブレッソンはさらにとんでもなく推し進めておきながら知らん顔をして批判していることになるからである。作家は嘘をつく。そして、作家は傷つきやすい。ドライヤーにしても『ブレッソンの映画は一本も見ていません』という発言はにわかに信じ難い。
■「吸血鬼(VAMPYR)」(1931)
ドライヤーは続けてフランスで初のトーキー「吸血鬼」を前作に続いてルドルフ・マテをキャメラマンにして撮る。それまではほぼ1年に1本ペースで長編映画を撮っていたドライヤーのペースがこの作品あたりから間隔が開き始める。『分断の映画史・第二部』において1920年問題を取り上げ、
『分断』を可能にしたのがホラー映画というジャンルであり、コミュニケーション不能の「未知の」怪物が相対するホラー映画だからこそ、人と人(吸血鬼)とをここまで思いきり『分断』させ続けることが可能になったのであり、これが人間同士であったならば『分断』されたまま映画が終わるなどということは基本的に有り得なかったはずである。
と書いたが、「サタンの書の数ページ」(1919)あたりから既に『分断』を加速させているドライヤーを見る限り『分断』とホラーとは関係ないようにも見える。だが『分断』とエスタブリッシング・ショットの不在などによって空間を狭くして撮ることを旨としているドライヤーにとってホラーというジャンルは相性がいい。青年が旅籠の部屋のベッドで寝ているとそこへ見知らぬ男が入って来てキャメラを正面から見据えながら『あの子を死なせてはならない』という『分断』⑦は、19ショット内側から切り返されそのまま終わっている。青年は成瀬目線を使いエスタブリッシング・ショットは撮られていない。これこそがホラー映画の撮り方だと言わんばかりの空間浮遊の傾向は前半多用されるトラッキングとパンニングによって加速している。トラッキングで軸を動かすことは動いている人物に寄り添うことでありここでは館の中を歩く青年と共に動くことによって新たな時空を開拓する代わりに過ぎ去った時空を失わせ同じく多用されているパンニングという方法は「裁判長」(1918)の『分断』⑨における法廷シーンで裁判長の娘と他の者たちとで『持続による同一存在の錯覚』を撮るときに活用された方法であり「ミカエル」(1924)の『分断』④でも使われているが、パンには大きく二種類ありここでのパンは被写体の動きに合わせて動くパンではなく不動の被写体をキャメラを左右に回転させながら次々と捉えてゆくことであり(以下このパンを『パン✕』として検討する。✕は被写体を追わないという記号)、トラッキング、横移動✕と同じように新たな時空を開拓する代わりに過ぎ去った時空を失わせることにおいて共通している(被写体に接近すればするほどこの傾向は強くなる)。『分断の映画史・第一部』で検討しているヒッチコック「裏窓(Rear Window)」(1954)において多用された『持続による同一存在の錯覚』はすべてこのパン✕によるものであり同一画面を残像によって錯覚させ空間を横に広げながらも『分断』をもたらす方法としてサスペンス、ホラーにはぴったりの方法と言える。パン✕横移動✕はこの世界を広く見せようとするのではなく狭く見せるのでありこれらの手法を人物や自分に接近させて行う時、『分断』、『エスタブリッシング・ショットの不在』と相まって眩暈を惹き起こすような時空が出現することになる。『分断』⑨の直後、キャメラは義足の男を見ていた青年から右へ横移動✕し壁に映っている影をずっと捉えてゆく。その後、落とし戸から出て来た青年からキャメラは再び横移動✕を始めて棺と「医学博士」という文字を捉えてから、髑髏の飾ってある部屋の中を今度はゆっくりと右へパン✕し、暖炉の上に髑髏が飾ってある隣の部屋でキャメラが左へとパン✕してゆくと、このあたりからどこからか聞こえてくる犬の鳴き声と人のものとも動物のものとも思えぬ鳴き声が狭い時空に遠近法を無視した不気味な広さをもたらしてくる。
『私は、ロングテイクが未来の映画を表していると信じています。6、7、8ショットで映画を作らなければなりません...私の視界では、短いシーンや素早いカットがサイレント映画を特徴づけているが、カメラが絶えず動く滑らかなミディアムショットは、サウンドフィルムに属している』とドライヤーは語ったらしいが(『Films of Carl-Theodor Dreyer by David Bordwell (1981)』225頁)、1ショット8.7秒とこれまでの最長の時間によって撮られているこの作品は『狭い空間を長く撮る』というドライヤーにとっては初めての方法によって見ている者たちに決して全景を悟らせることなく夢想の世界を持続させている。
★平行モンタージュ
終盤、粉ひき場の医者と逃げてゆく青年と娘のあいだで何度も平行モンタージュされている。ドライヤーは極めて多く平行モンタージュを使う監督であり、編集はドライヤー自身がしていることからすればこれはドライヤーの「意志」としてそうされているのだろうが、この多過ぎるとも見えがちな平行モンタージュはドライヤーがかねがねその影響を口にするD・W・グリフィスから来ているのかもしれない。
■「怒りの日(Vredens Dag)」(1943)
★長回し
ドライヤーは「吸血鬼」(1931)の封切がベルリンでなされたあとデンマークに戻りそこから11年間をジャーナリストとして過ごしている。映画が始まり、薬剤魔女(昔のヨーロッパに実在した薬草を扱う女性たちのこと)のマーテが家で患者に薬を調合している時、外から鐘の音としばらくして群衆の魔女狩りの雄叫びが聞こえてきてマーテが裏口から逃げるまでの3分30秒ほどが軸を動かしながらの長回しによって1ショットで撮られている。ドライヤー映画では実質、初めての長回しでありショット数も「吸血鬼」の1ショット8.7秒からさらに12.5秒と長くなっている。ドライヤーが「吸血鬼」から11年ものあいだ映画を撮れずにジャーナリストとして生活しているあいだに世界の映画のショット数が減ってきている(?)ことが反映されたのかそのあたりはもっと多くのデータを取ってみないと不明だが、ショット数が減るということは内側からの切り返しが減ることであり50分のフィルムが欠落している「むかしむかし」(1922)と「グロムダールの花嫁」(1925)はそれを補って見るとしても「吸血鬼」(1931)あたりから内側からの切り返しは減少し始めそれが長回しという形ではっきり現れたのがこの「怒りの日」ということになるものの、基本的な撮り方はそれまでと大きく変わっているわけではなく長回しも冒頭以外は撮られていない。
★ショット数表
ドライヤーショット数表を提示する。
左から1ショットの秒数、1時間のショット数、総ショット数、上映時間
「裁判長」 8.57 420 588 84
「サタンの書の数ページ 7.3 492 1287 157
第一話 7.55 477 245 30.50秒
第二話 8.3 434 217 30
第三話 7.8 462 422 54.45
第四話 6 604 396 39.20秒
「牧師の未亡人」 5.3 675 787 70
「不運な人々」 4 872 1365 94
「むかしむかし」 7.2 503 645 77
「ミカエル」 5 677 1004 89
「あるじ」 45 703 1231 105
「グロムダールの花嫁」 6 593 731 74
「裁かるるジャンヌ」 3.7 975 1511 93
「吸血鬼」 8.7 413 468 68
「怒りの日」 12.5 289 440 92
「奇跡」 64 56 111 119
「ガートルード」 79.5 45 83 110
★2人の出会い
魔女の娘アンネが神学の勉強をして帰って来た夫の息子と初めて出会うシーンは8ショット内側から切り返されそのまま終わっている(『分断』①)。2人は1ショットも同一画面に収められることなくこのシーンを終えている。フリッツ・ラング「メトロポリス(METROPOLIS)」(1926)やヒッチコック「めまい(VERTIGO)」(1958)ニコラス・レイ「大砂塵(OHNNY GUITAR) 」(1954)などによって痛いほどこうした初めての出会いにおける『分断』の洗礼を目にしていながらもまたこうしたシーンに出会うと不思議を感じるしかないが、これをハリウッドで幾つもの連なるシークエンスを跨いで実行したヒッチコックには改めて驚愕する。おそらく映画を見ている時、こうした『分断』は潜在意識の中でのみ露呈することになるのだろうがそれを実行する「伝統」が映画史には確固として存在することだけは身に染みて感じるしかない。
★『分断』29~横からの切り返しと『別々に撮られていない』。
『分断』29では面白い出来事が起こっている。アンネが夫の牧師を呪い殺した後、息子のマーチンから『父の死を願ったのか』と聞かれるシーンではAまず切り返しの原ショットでアンネのクローズアップがほぼ正面から撮られ、Bそこからマーチンの横顔へと内側から切り返されている。Cそこからさらにもう一度アンネの正面から撮られたクローズアップへと内側から切り返され、D再びマーチンの横顔へと内側から切り返されている。そう見える。だがDの画面の右端にいきなりアンネの鼻と口が映し出されそのままキャメラは右へパンするとなんとそこにアンネが存在している。もしこのDにおいてこのアンネが画面に映し出される前にカットされていたならば『マーチンとアンネとのあいだは、3ショット内側から切り返されそのまま終わっている。別々に撮られている』、と書いただろう。そして『マーチンとアンネの照明が修正されている』とも。だがこのDは(そうすると同じショットのBも)、別々に撮られていない。目の前にアンネが存在する状態で撮られているからである。するとBは、マーチンの目の前にアンネが存在しているにも拘わらずマーチンだけを撮って内側から切り返されているように見せていることになる。こうした私の過ちが生じるのは、このマーチンのショットが横から撮られているからであり、正面から撮られているAとCはその角度と距離からしてマーチンをどかして撮られているので別々に撮られている。すると正解はこうなる。『マーチンとアンネとのあいだは、3ショット目に同一画面に収められるまで、2ショット目と1、3ショット目は内側から切り返されている』。まるで禁断の撮影現場を垣間見てしまったような戦慄に包まれてしまう。
■「奇跡(ORDET)」(1954)
ドライヤーは「吸血鬼」(1931)のあとデンマークに戻り短編などを撮りながら11年間ジャーナリストとして生活したあと「怒りの日」(1943)を撮りさらにその後スウェーデンに渡って「二人の人間(Två människor)」(1945)を撮り第二次大戦が終わるとデンマークに戻り、短編映画などを撮りながら「奇跡(1954)を撮ることになる。前作「怒りの日」(1943)で初めて長回しらしい長回しをフィルムに焼き付けたドライヤーは「奇跡」においてそれをさらに推し進めショット数も1ショット12秒から一気に64秒へと到達している。内側からの切り返しも31回というおよそそれまでの10分の1に減少しクローズアップも前作の73から9へと激減している。『長回しの映画』と称されるオーソン・ウェルズ「市民ケーン(CITIZEN KANE)」(1941)ですら1ショット11.5秒であり内側からの切り返しが150回も撮られているのに対してドライヤーのこの「変節」ぶりは際立っている。当然ながら内側からの切り返しによる『分断』も10箇所へと激減し、キャメラを正面から見据えるショットも基本的に撮られなくなり『エスタブリッシング・ショットの不在』は『分断』①~④の主観ショットにおいてのみ見られるだけとなり(主観ショットはエスタブリッシング・ショットの不在を伴いやすい)狭い空間における切り返し■も撮られなくなる。壁には複数のライトで照らしたような人物の影が修正されずにそのまま(あられもなく)映り、車のヘッドライトが家の中の壁に反射するシーンなどはいかにも舞台において実践されそうな光の在り方であり『照明の修正』も殆どなされていない。
★寄る・切り返す
『分断』は①~④までは主観ショット、そこからは切り返し自体が殆ど撮られず、長回しの映画はそのまま終盤まで持続されてゆく。嫁のインガがお産によって亡くなり牧師がインガの棺の上で祈りを始めた時、キャメラは牧師と棺の中のインガを同時に捉えたショットから参列している親子(インガの義父とその三男)へとやや正面の内側から切り返される。牧師の背後のまるでその部分だけ紗をかけられたかのように輝いている白い光をバックにしたショットから、この映画で初めて「照明」という出来事が露呈し始めさらに初めて「正面からの切り返し」が撮られこの時点で①~④の主観ショット以外での初の『分断』が成立する。人物と人物のあいだにキャメラが置かれるこの正面からの切り返しはそれまでの長回しの映画に突如、異変を生じさせている。キャメラは再び牧師と棺の中のインガの正面へと内側から切り返され、さらに長男の正面へと内側から切り返され、再び牧師とインガの棺の正面へと内側から切り返される(『分断』⑤)。そこへ敵対していた仕立て屋がやって来てインガの義父と和解しうちの娘を三男の嫁にもらってくれと娘を呼ぶとやって来た娘の髪がバックライトの光の中へ入って来てキラキラ輝いている。この映画で初めて人物に当てられたバックライトはそれまでの「舞台の映画」からの決定的な決別をもたらしながら、そこへ『我こそは神の子なり』と信じる、失踪していた次男ヨハネスが帰って来て父を驚かせる(『分断』⑥)。もうカットを割らずに映画は撮れないと言わんばかりに切り返されたこの『分断』⑥の直後、棺の中のインガとその前に立っている2人(ヨハネスと父親)とのあいだが1ショット内側から切り返されているがここには棺にすがりついているはずの長男が映っていない。インガ一人だけの「ショット」を撮るという『分断』の意志が長回しの「未来」を押しのけている。熱心な宗教家たちが奇跡を信じようとせず、みなから頭がおかしいと思われている変人のヨハネスは『インガ、朽ち果てろ、この世が腐っているから、、』と奇跡をおこそうとはしない。そこへどこからともなくやって来た少女(インガの長女アン・エリザベス・グロス)がヨハネスの手を握り『おじさん、急いで、早くして』とヨハネスをせかす。ヨハネスの乱心を嘆く者たちをよそにヨハネスはインガの復活を祈り始めると、キャメラが少女のクローズアップに寄る。この1ショット64秒の映画でカットを割ってキャメラが人物に寄ったのはこれが二度目。一度目はインガが危篤の時、『ママはもう死ぬの?』という少女の問いかけにヨハネスが『死んでほしいのかい?』と答える時にキャメラが寄り、そのまま2人の周りをキャメラがゆっくりと回転しながら少女がヨハネスに奇跡を起こすようせがむシーンが撮られている。そしてこの二度目、少女にキャメラが寄り、引かれてからもう一度少女のクローズアップに寄っている。まるでこの少女のクローズアップがインガを蘇らせるのだと言わんばかりの寄りが撮られると、さらにキャメラは引かれて少女はヨハネスを見上げ微笑みを投げかける。するとキャメラは180度内側から切り返され棺の中のインガを正面から捉えインガの手がかすかに動き始める。キャメラは再び少女のクローズアップへと内側から切り返される。内側からの切り返しがクローズアップへなされるのはこの瞬間が初めての出来事であり、全部で9ショット(1つはショット内モンタージュでそれ以外はすべてインガのクローズアップ)撮られたクローズアップの3ショットがこの何の変哲もない少女の顔を身近に捉えている。そのクローズアップで少女は微笑みをふたたびヨハネスへと投げかけたあと、キャメラは引かれ、少女は部屋を出て行く(『分断』⑨)。インガは物語ではなく映画の力によって復活している。ドライヤーは「ガートルード」(1964)について『私は長回しのカットの力というものを大いに信じています』と語っている(作家主義405)。ここでの「カット」とは「切ることにより生まれること=モンタージュ」のことではなく編集で切られた1カット=編集された長く続くシーンのことを言っていると推測されるので端的に「長回しの力」を信じていることになる。奇跡を起こす瞬間にその「ちから」をなぜ信じなかったのか。
■「ガートルード(GERTRUD)(1964)
「奇跡」(1954)から10年の歳月を経てドライヤーは再びデンマークでキャメラマン、ヘニング・ベンツセンと再び組んで「ガートルード」を撮る。三日で編集した(作家主義404)とドライヤーが語るこの作品は、「奇跡」の64秒をさらに進めて(遅くして) 1ショット80秒で撮られた長回しの映画である。「怒りの日」(1943)は編集に12日かかった、「奇跡」は編集に5日、それ以前は私は編集に一カ月ないしはそれ以上もかけていたとドライヤーが語るようにカットの長さと編集期間とは反比例している。『私は、ロングテイクが未来の映画を表していると信じています。6、7、8ショットで映画を作らなければなりません...私の視界では、短いシーンや素早いカットがサイレント映画を特徴づけているが、カメラが絶えず動く滑らかなミディアムショットは、サウンドフィルムに属している』というドライヤーの言葉通りにキャメラの軸が人物と寄り添うトラッキングとして撮られ始めた「吸血鬼」(1931)以来、ドライヤー映画のショット数は減少し始めている。「奇跡」からさらに内側からの切り返しは32→27へ、クローズアップも9から6へ、キャメラを正面から見据えるショットは2ショットのみ、エスタブリッシング・ショットの不在は影を潜め、狭い空間での切り返し■は撮られなくなり、「奇跡」では依然として多用されていたドライヤーの代名詞でもある平行モンタージュが、オペラへ行くと夫に嘘をつき音楽家と合っている妻ガートルードと彼女を迎えに馬車でオペラ劇場へと向かう夫とが平行モンタージュされている1箇所しか存在しなくなる。
★照明
「奇跡」では壁に人物の影がそのまま(あられもなく)映っていたりしていたものが「ガートルード」では長回し以前の作品と同じようにそのような影は修正されている。「奇跡」は照明においては「舞台的」な傾向を指し示しているが『照明の修正』という観点からは2作続けて同じキャメラマン、ヘニング・ベンツセンによって撮られた「ガートルード」が遥かに映画的に撮られている。ドライヤーが同じキャメラマンと2本続けて映画を撮ったのは「サタンの書の数ページ」(1919)→「牧師の未亡人」(1920・ゲオー・スネフォートとは「むかしむかし」(1922)「あるじ」(1925)の4本を共に撮っている)、「裁かるるジャンヌ」(1927)→「吸血鬼」(1931・ルドルフ・マテ)、そしてこの「ガートルード(1964)の3本だけであり、3本続けて同じキャメラマンと撮ったことは1度もない。そのような状況の中で毎回、国とスタッフをすべて変えながら撮り続けているドライヤーが2本続けて同じスタッフで撮った2作目は1作目の撮影をより推し進めて撮られているよう。これは『分断』や照明の修正の数を単純に比べることよりも2作目がよりコミュニケーションを深めているという意味においてだが「牧師の未亡人」はその前作に比べてより狭い空間で柔軟に撮ることにチャレンジされ、初のトーキー「吸血鬼」(1931)ではともすれば「同じ写真」に終始した前作よりもよりしなやかに撮られている。
★未来へ
照明の修正とはカットを割ってキャメラを寄るなり切り返しなりした時にそれ以前の光とは違ったそのショットのための光を当てることあり「その人」が「そのひと」として撮られている時、多くのケースでは照明が修正されている(今回、ドライヤー以外の作品については照明の修正について詳しく書くことができなかった)。持続するショットの過程で照明を修正することは難易度が高くむしろ人物が動くと『照明の維持』で精いっぱいになるのが常であるところ、切り返し、あるいは寄る、などでカットを割れば「ガートルード」のクローズアップ欄の③、④のように照明を修正することが可能となり違った時空を創り出すことができる。「ミカエル」(1924)でヴァルター・シュレザークがノラ・グレゴールの目を描くあの夢のシーンは内側からの切り返しと照明の修正なくして撮ることはできず、「グロムダールの花嫁」(1925)のエプロンをなびかせて手を振る『分断』④もまた内側からの切り返しなくしてエモーションを惹き起こすことはできない。それにも拘らずドライヤーは「奇跡」(1954)で長回しの映画を選んだ。なぜかはわからない。ドライヤーは同じキャメラマンで撮った次作「ガートルード」(1964)では長回しの映画をさらに進めている。ドライヤーは先に進もうとしている。
★内側からの切り返し
「奇跡」(1954)では終盤、一気に『分断』が加速しているように「ガートルード」(1964)でもまるで思い出したように『分断』が散りばめられている。開始早々、夫が妻に浮気を問い詰めるシーン(『分断』①)では、内側からの切り返し、キャメラを正面から見据える主観ショットとそれによる二つの目イマジナリーライン、照明の修正、外側からの切り返しによる『正常な同一画面』の誕生、など、カットを割ることによって、切り返すことによって現わし得るショットの連なりが撮られている。ヒッチコックは「ロープ(ROPE)」(1948)を全編長回しで撮ろうとしたがフィルムが続かないため途中で何度か見ている者には分からない方法でカットをしているがこの『分断』①はそのようなカットではなくこのシーンを撮るための方法として撮られている。そしてこのドライヤーの遺作は『分断』⑦が撮られそのまま終わっている。