映画研究塾トップページへ

『分断の映画史・第四部』~カール・ドライヤー

第三章 運動論

■「常習犯」と「初犯」

「常習犯」とは現在の自分を在らしめている「起源」を喪失した人間による禁欲的・自己目的的に遂行されるスキル運動であり、ガンマンが銃を撃ち、探偵が探偵をし、刑事が容疑者を捕まえ、、というスキルを駆使した職業運動がその典型としてある。領域としては「前科4犯」~「前科10犯」まであり(おおよそのはなしだが)、前者は「起源」をおぼろげながら想起し罪の意識、葛藤を程よく持った「ジョン・フォード型」、後者は「起源」、罪の意識、葛藤をまったく欠いた「マイケル・マン型」であり、その中間に「前科6犯」の「ハワード・ホークス型」がある。この職業運動を拡げてゆくと、密告者は密告し、保守主義者は保守し、愛人たちは愛し合う、とゴダールが述べたような職業よりもより広げられた領域の運動が目指されるようになり、さらにそれを拡げると人間は人間をし、、という人間運動の領域に到達することになる(ラブストーリーなどはここに位置している)。どちらにしても「常習犯」とは「起源」、罪の意識、過去、善悪、等、人間的なるものとの関連における人間によるスキル運動であり、スキルを喪失した「モノ」による巻き込まれ運動とは質的に異なっている(詳しくはヒッチコック論文に譲る)

★「初犯」とは

「初犯」とは常に「起源」を意識し罪の意識に苛まれしかめっ面で心理的な運動がなされてゆく領域であり、人が「悪人」から「善人」へと回心したり、喧嘩した相手に謝罪したりして変節を遂げてゆく。フレッド・ジンネマン「真昼の決闘(HIGH NOON)(1952)、ハワード・ヒューズ「ならず者」(1941)などがその典型としてあり、これもまた職業運動、人間運動問わず現れる現象としてある。

★「常習犯」と「初犯」の見分け方

まったき「起源」の領域に住まう者が「初犯」、「起源」を忘却しそこから遠ざかってゆく者が「常習犯」であり、両者の見分け方としては「起源」が語られているか、それと関連した回想の有無、みずからの行動に罪の意識を有しているか否か、運動の起動に理由があるか否か(「常習犯」は衝動的、「初犯」は考えてから動く)、運動の遂行が心理的か否か、人が改心、変節するか否か、等であり、YESであれば「初犯」、NOであれば「常習犯」へと接近する。どちらも人間的運動であることにおいて動物的運動である巻き込まれ運動とは異なっている。

★「死滅の谷(DER MUDE TOD)(1921)~フリッツ・ラングの衝動

フリッツ・ラングが192年に撮ったこの作品はドライヤー同様に「イントレランス」(1916)の影響を色濃く残しているが、死神によって天へ召された恋人を忘れられない娘(リル・ダーゴヴァー)が死神との契約によって4つの時代を駆け抜けながら恋人を救おうとするが果たせず、最後のチャンスに代わりの命を持ってくれば恋人を返してやると言われた娘は燃え盛る火事の中に取り残された赤ん坊を助け出すと死神に差し出そうとする。だが娘が赤ん坊を死神の腕に託そうとするその瞬間、内からの何かの衝動に突き上げられるように赤ん坊を強く抱きしめると窓辺へと走り身を乗り出して赤ん坊を母親の元に返してから、ゆっくりと死神の元へと帰って来ると自分も死んで恋人の元へ行くという。『愛は死に負けぬほど強い』を胸に刻んだ娘にとってたいせつなのは愛に生きることでありただ生きることではない。娘は恋人と共に生きる死を衝動的にそうした(選んだのではない)のでありフリッツ・ラングはそれを内からこみあげられる衝動によって淀みなく撮っている。この作品は職業運動ではなく人間運動のラブストーリーであり、娘が赤ん坊を死神に差し出そうとするとき赤ん坊の母親のモンタージュが挿入されていて「読める」ように見えなくもないが横からのフルショットで撮られたこの運動には心理的なるものが一切撮られておらず、突然赤ん坊を抱きしめ窓辺へ走るという運動が衝動として撮られている。これが「常習犯」の撮り方でありこれまでの論文で何度も引用しているマイケル・マン「ヒート(HEAT)(1995)で突然車線変更をして裏切者を殺しに行ったがために刑事のアル・パチーノに殺されるロバート・デニーロの衝動的運動の「起源」ともいうべき「常習犯」の映画史にほかならない。このメロドラマは「戦艦ポチョムキン(BRONENOSETS POTEMKIN)(1925)に劣らぬ影響をその後「常習犯」の映画たちに及ぼし続けている。

★巻き込まれ運動とは

「常習犯」と「初犯」が人間的スキル運動の領域だとすれば「巻き込まれ型」は動物的(モノ的)領域におけるスキルを喪失した者たちの運動である。ここには「起源」も罪の意識も回想もない。「常習犯」が人間の内部からこみあげて来る衝動によって運動を開始するのに対して巻き込まれ運動は外部から背中を押してくれるマクガフィンによって初めて運動が起動する。「常習犯」の運動は内から生ずるのでハワード・ホークス「ハタリ!(HATARI!)(1961)でハンターが狩りをしているところから映画が始まるように映画開始時点において既に運動が始まっている最中であることが多くあるが、巻き込まれ運動は外部から来るマクガフィンによって起動するので映画が開始した後にマクガフィンが起動して初めて運動が開始される。巻き込まれ運動の基本は「逃げること」だがマック・セネット、バスター・キートンのスラップスティックコメディ、ヒッチコックの「巻き込まれ型」映画において映画開始時点で既に逃げている者は一人もいない。マック・セネットは1923年当時既にスラップスティックコメディは苦しい時代を迎えていたと語っているが(「喜劇映画を発明した男」356)、巻き込まれ運動の主人公は「モノ」でありマクガフィンなくして運動を起動させることは不可能であることから映画は常に「ゼロ」から作られなければならず、内部からの衝動によって放っておいても動き出してくれる「常習犯」とは違って金も時間もかかればアイデアもゼロから必要となる。チャップリンはそこから人間の映画へとシフトすることで生き残りセネット、キートンはシフトせずに取り残される。撮られた映画は巻き込まれ運動だがそれを撮り続けた人間たちは極めつけの「常習犯」、変わることはできなかった。

■ドライヤーと人間運動

『ドライヤー「常習性」診断表』を提示する。一番左の『職業=運動連関表』で赤く書かれた文字の部分が職業と運動の一致している職業運動だが、職業運動が撮られているのは「牧師の未亡人」(1920)における見習い牧師に依る模擬説教(牧師が説教をする)、「ミカエル」(1924)で画家のベンヤミン・クリステンセンが侯爵夫人の目を「描けない」こと(画家が絵を描く)、「グロムダールの花嫁」(1925)の農民の青年がオープニングで土地を耕していること(農民が農場を耕す)くらいでそれらもごくわずか撮られているだけで目的としては撮られておらず「あるじ」(1925)の妻が家事をしたり「吸血鬼」(1931)で吸血鬼の研究家が吸血鬼を滅ぼしたり「怒りの日」(1943)の魔女が夫を呪い殺したりというような「スキル」を利用することはあるとしても「職業」に関する運動は殆ど撮られていない。撮られているのは職業運動をさらに広げた人間運動であり、その「常習性」を検討するにあたって重要な分岐点を示す罪の意識から見てみたい。

◎は罪の意識あり ✕はなし

「裁判長」 ◎ 裁判長が私生児の娘に対して

「サタンの書の数ページ」

第一話から第四話までのサタン ◎

第一話 ✕ キリストに罪の意識はない

第二話 ✕貴族の父娘 ◎学僧(ヨハンネス・マイヤー)

第三話 ✕マリー・アントワネット、伯爵一家 ◎伯爵の召使(エリート・ピオ) 

第四話 ✕ 電信技士の夫婦 

「牧師の未亡人」◎牧師とその恋人が未亡人に対して。✕未亡人。ただ、若い頃は罪の意識を有していたと回顧する。

「不運な人々」1 ✕ 

「むかしむかし」◎お姫様に ✕王子

「ミカエル」 ✕ 誰も罪の意識は有していない

「あるじ」  ◎夫が妻に対して

「グロムダールの花嫁」 ✕娘 ◎娘の恋人の農夫は娘と自分が付き合っているから娘が落馬したのだと感じて罪の意識を有している。娘の父親については後述。

「裁かるるジャンヌ」 ◎ジャンヌは途中で一度「改心」しているがこれが罪の意識かは微妙なところ。

「吸血鬼」  ✕ 誰もなし

「怒りの日」 ✕ 魔女はラストシーンで自らは魔女だと告白しているが罪の意識は有していない。

「奇跡」   ✕神の奇跡を信じている三男ヨハネスと嫁の長女(少女)はなし その他はみんなあり。

「ガートルード」 ✕ガートルードは愛の「常習犯」。◎夫はあり。

★「裁判長」(1918)~起源◎ 回想◎ 罪の意識◎

裁判長ハルヴァーズ・ホーフが自らの婚外子として生まれた娘が子殺しの罪で自分の担当する裁判にかけられ苦悩するドライヤーの処女作は、平民の女を決して妻にしてはならない、すれば家が破滅する、という先祖から伝えられる家訓(起源)からある女とのあいだにできた娘を私生児としてしまった裁判長が、そのいきさつを親しい弁護士に回想によって告白し、それによって「起源」を想起した裁判長の行動は「初犯」的領域のしかめっ面で重々しいものとなる。だが娘に死刑が宣告されたあと家訓を破って娘に自ら父であると名乗りそこで初めて娘から「お父さん!」と呼ばれた彼はまるで長年の呪い(起源)から解き放たれたような活き活きとした顔で独房から出て来ると外で待っていた親友の弁護士と握手し娘の恩赦の申請をすると伝える。これは平民の女とのあいだに生まれた子供を自分の娘と認める『家訓に背く行為』であり一見して善悪による「改心」とも見られそうな出来事だが、「改心」とは「初犯=起源」へ接近する出来事であるところここで裁判長は長年自らの運動を縛り続けて来た家訓という「起源(善悪)」を破棄したのであり、だからこそ帰宅してからも召使の仕事を手伝い談笑している彼の姿はまるでその姿を撮るために2人の召使は存在するのだと言わんばかりの瑞々しい運動として撮られている。娘の「お父さん」という一言が彼の人となりを劇的に柔らかくさせ、2人召使はそれを証拠立てるマクガフィンとしての役割を果たしている。その後、娘の恩赦が却下されると失意で壁によろめいた裁判長は突然何かに突き上げられるように娘の独房へと駆けつけて恩赦が認められたと娘に嘘をつき、帰宅して2人の召使に事情を話し、みずからの昇進パーティの途中で席を抜け出して娘を独房から連れ出し、裁判所へ戻って法務大臣への辞職願を書き、新しい赴任先へ向かうと見せて娘たちと合流し国外逃亡する、という一連の行動を、多少の心理的葛藤に苛まれながらも一気に成し遂げてゆくのであり、みずからの地位を危うくするにも拘わらず『突然何かに突き上げられるようにして』衝動的に始められ完遂されるこれらの衝動的運動はフリッツ・ラング「死滅の谷」はもとよりそこから派生したマイケル・マン「ヒート」で逃げられるにもかかわらず裏切者を処分するために車線変更をしたロバート・デニーロの身に染みついた運動と変わることのない「常習犯」としての典型的な起動パターンとして撮られている。通常のメロドラマにおける「改心」は「常習犯」が善悪の観点から「初犯」になり、あるいは元々善悪に生きる「初犯」が同質の「初犯」に変節するのを常とするが、「裁判長」においては家訓という「起源」=善悪の領域の縛り=によって「初犯」的領域へ閉じ込められていた裁判長が「本来の自分」=「常習犯」へと回帰するという「改心」とは逆転回運動=回心=が多くの「常習犯」的細部によって撮られているのであり、運動論的にはハワード・ホークス「リオ・ブラボー(RIO BRAVO)(1958)で飲んだくれの「初犯」ディーン・マーティンが皆殺しの歌を聞いた途端、酒を断ち、腕利きのガンマン(「常習犯」)に回帰したのと変わることはない。この処女作は程よい葛藤を持ち続ける「前科4犯」程度のメロドラマとしてのエモーションを醸し出し、処女作においてドライヤーは「常習犯のメロドラマ」というジョン・フォード的領域を撮っていることになる。

2人の召使い

ここで撮られている2人の召使いたちは物語的因果関係からは必ずしも必要な存在ではなく、裁判長に家事を手伝ってもらったり、談笑したり、飼っている犬が裁判長を微笑ませたり、娘を夜の独房から連れ出す時にランプで照らしたり、共に国外逃亡してから娘と共に過ごしたり、娘の結婚式に参列したりするに過ぎない。それにも拘らず男の召使フランツ(ハランダー・ヘルマン)は裁判長の父親の回想が終わり30年後のシークエンスが始まるとすぐ『裁判長の信頼する召使フランツ』と字幕とクローズアップで紹介され、もう一人の女の召使(ファニー・ペーターセン)もその直後に『ブリギッタ』と字幕とクローズアップで名前と顔を紹介されている。このような字幕付きで紹介されるのはこの作品では主役の裁判長に次いで2人目であり、裁判長の父親(エリート・ピオ)も洗濯女も、副裁判長もこのような紹介はされていない。逃亡先の教会で「家族だけで」行われた娘の結婚式にはこの2人の召使とブリギッタの飼っている犬たちが参列し、ここで2人の召使はこの作品で唯一、キャメラの軸が動くトラック・アップによって撮られている。同じく物語の因果とは何の関係もない盲目のオルガニストが何度も撮られているこのシーンは(『分断』23)、決して物語に直結する人物ではない「そのひと」を撮ることがモーションピクチャーであると言わんばかりの傾向を指し示している。

●弁護士

裁判長の親友である弁護士(ヴェアナー・リチャード・クリステンセン)は裁判長が娘を脱獄させるときには黙認しそれが裁判長の仕業であることも秘匿し続けるような男であり彼もまた善悪から遠いところにいる「常習犯」として撮られている。そんな彼が何年もしてからとある船上で会った男が逃亡している裁判長の娘の婚約者であることが分かってからも婚約者を迎えに来た裁判長一家から身を隠し、船に婚約者の荷物を取りにやって来た召使のフランツに『私はいつでも愛と尊敬(love and respect)をもって君(裁判長)のことを思い出すよと彼に伝えてくれ。』、、そして『尊敬、という言葉を忘れるな、フランツ!』と念を押している。この念を押されてまで敢えて発せられた『尊敬と言う言葉を忘れるな!』という、あまり映画では見たことも聞いたこともない激しい伝言は善悪を超えた裁判長に対して発せられた言葉であり、その激しい言葉は裁判長本人にではなく召使のフランツに対する伝言として託されている。2011年に書かれた批評『クリント・イーストウッド「ヒア アフター(HEREAFTER)(2010)の~メディアと預言者について』の最後に、伝言を託される人間の資質についてこう書かれている。

『この映画は、メディアとしての「預言者」を描いている。人がメディアとなって、何かを人に伝えること、それには資質がある。それは決して知識や学歴といった「知っていること」ではない。運命に翻弄され、まるで道具のように突き動かされながらも、忠実であり続ける人々、孤独な彼らは何も知らず、やたらと素直で、しかしみずからが傷ついたことで他人の痛みを感じることはできる、そんな彼らこそ、媒体となってメッセージを伝えるに相応しい。そんなメッセージこそが、人を感動させ、エモーションを惹き起こすことができる。』

★メロドラマ

「裁判長」は『常習性診断表』における4つの項目にすべて◎がつく作品でありそれに相当するのはドライヤー作品の中では「あるじ」(1925)とこの2本しかない。当時、この作品の製作をしたノーディスク社はメロドラマを主流とした会社でありそうした点からメロドラマ的傾向を指し示すのもうなずけるが、それはあくまで題材から来ることでありその題材をどう撮るかと混同してはならない。ここでドライヤーはメロドラマでありながら「常習性」を露呈させる細部を強く撮り続けながら「常習犯」のメロドラマを撮っているのでありそれを単なる「初犯」のメロドラマと断じてはならない。

■「牧師の未亡人」(1920)~起源◎ 回想✕ 罪の意識◎

とある村で亡くなった牧師の後任候補としてやって来た青年セフレンとその恋人のマリは、牧師になるためには高齢の牧師の未亡人マルガリーテと結婚しなければならないと知って愕然とするが『みなの助けで大学に入り苦学をして牧師になるための訓練を受けた』という「起源」を有するセフレンと、『牧師になるまでは結婚してはならないという父の言いつけを守り何年も待ち続けていた』という「起源」を有するマリは、結婚しても高齢の未亡人の老い先は短いと高をくくり、マリは妹だと嘘をついて未亡人と結婚してみたところ『少なくとも私はあと100年は生きられる』と豪語する元気な未亡人にしびれを切らし脅かしたりすかしたりしながら彼女の寿命を縮めようと(牧師とは何の関係もないことばかりをして)奮闘するが悉く失敗し逆に未亡人に手痛い反撃を食らい続ける日々を過ごしながら、どうしても恋人と2人きりで会いたい青年は2階にいる未亡人の階段を外してその隙に恋人に会おうと画策する。だが誤って恋人が落下してしまい駆けつけて恋人を介抱している青年は2階からやって来る未亡人の気配を感じて咄嗟に振り向き『気をつけろ、マルガリーテ!、階段がない!』と叫んで階段を降りてこようとする未亡人を制止している(『分断』38)。それまでの浮ついた顔とはまったく異質の恐ろしいまでの顔で叫んだ牧師の発声は、頭の中では死を願っていても体の中では反射的に生に反応している身に染みついた振動として撮られているのであり、このセフレンという牧師見習いの青年は、優柔不断でお調子者、女たらしの嘘つきだが、それほど曲がった男でもないんだよ、という「前科4犯」的な身に染みついた人間性が数々の断片的なエピソードと「梯子を外す→二階家」というマクガフィンによって撮られている。セフレンはその後、自分が未亡人の死を願っていたことを告白して未亡人に許しを乞うているが、それは彼が本来持っていた「前科4犯」的人間性への「回心」であり、そのあたりまで弱められた「常習性」が却って人間物語のエモーションを醸し出している。「前科4犯」のメロドラマは「初犯」になるギリギリの線で「常習犯」に留めておかなければならないジョン・フォード的離れ業の領域であり「裁判長」(1918)の裁判長から「サタンの書の数ページ」(1919)のサタンに続いて(後述)ここでもまたドライヤーは思い出したように「前科4犯」の「常習犯」を撮っている。

★未亡人ヒルドゥア・カールベルイ 「起源」◎罪の意識◎

二階から落下したマリが未亡人の献身的な介抱によって回復した後、そのベッドの傍らで未亡人はセフレンたちに話し始める。『私は最初の夫と長年婚約していましたが、先代の牧師の未亡人と結婚しなければ牧師にはなれないと言われました。先代の未亡人は虚弱で長く生きられないことは分かっていたので私たちにとっては辛い誘惑でした。私は他人の死の上に自分たちの幸福の希望を築きました。私たちは5年間待たなければなりませんでしたがその後も私たちは2人でできる限り幸せになりました。この部屋や壁には30年の幸せな想い出が刻まれていて教会の墓地には私の思いから離れることのできないお墓があるのです』。これは現在の未亡人を有らしめている決定的な過去でありその「起源」をセフレンたちに語って想起したあと『その後、未亡人は別人のようになり一日の半分を最初の夫の墓の前で過ごすようになった』、と字幕に語られているように、それまで周囲から怖がられていた未亡人とは打って変わっておとなしくなりそれからすぐ彼女は亡くなってしまう。「起源」を想起した者の運動が停滞し「死ぬ」といオーソン・ウェルズ「市民ケーン(CITIZEN KANE)(1941)おけるモーションピクチャーの「法則」がここでも現れている。「牧師の未亡人」はセフレンをしてラストシーンにこう言わしめて終わっている。『彼女は僕に誠実な人間になるすべを教えてくれた』。未亡人役のヒルドゥア・カールベルイはこの映画を見ることもなく撮影直後に亡くなっている。

2人の使用人~『分断』41

ここでもまた2人の使用人が撮られている。一人は大男のエミール・ヘルセングレーンで彼は牧師見習いのセフレンが未亡人に向かって『私が主人だ』と宣言した直後、未亡人に呼ばれてセフレンを締め上げたり、またセフレンの頭から水をかけたりし、「あるじ」(1925)の乳母役でお馴染みの女、マティルデ・ニールセンはセフレンの恋人と2度間違われてセフレンを慌てさせたりとここでもまた2人の使用人は物語の因果に直結する役割を演じているわけではない。未亡人の介抱によって二階から落下したセフレンの恋人が回復したあと、それまでセフレンをぎゃふんと言わせ続けていた未亡人とは打って変わっておとなしくなり最初に結婚した夫の墓の前で半日を過ごすようになった彼女が、ある日とぼとぼと歩いて来ると厩の馬を撫で、振り向いて世界を見回してから家の中へ入ってゆく、その姿を2人の使用人が仕事の手を休めて見つめている(『分断』41) 。これが、彼女が人に見られた最後の姿となる。それを主人公ではなく使用人が見ているこのシーンには素直で忠実である人々こそが「見ること」をするに相応しいと言わんばかりの傾向を見出すことができる。「見ること」は価値の不確かで無色透明な出来事を「そのこと」として見ることのできる者たちのみに与えられた映画的特権であり「裁判長」(1918)の召使いフランツのメッセンジャーとしての資質と変わることはない。

■「あるじ」(1925)~起源◎ 罪の意識◎ 回想◎

事業に失敗してから家庭内で暴君となった夫ヨハンネス・マイヤーをみんなで懲らしめてやろうとするこの作品は序盤から罪の意識のかけらもない夫のこれでもかという暴君ぶりが、吹いているやかん、バターを節約した(とされる)パン、立ったり座ったりする妻、乳母の持ってきた鳥籠、泣いてぐずる赤ん坊、靴をすり減らして遊ぶ息子、などあらゆる夫を刺激するマクガフィンを駆使しながら撮られている。まさに夫は「前科10犯」とも目すべき「暴君常習犯」の極致であり、吹いているやかんの音が鳴り止まないと『やかんの音が聞こえているのは俺だけか?』と嫌味を言い食事中のテーブルで妻が立ち上がると『どうしてお前は立ったり座ったりするんだ』と家事に忙しい妻に嫌味を言う。ところが実家に帰った妻が病気で当分帰ってこられないと医者に厳重に注意された夫は借りてきた猫のように従順となって家に帰って来る。確かにやや劇的に人間が変化し過ぎているが、まったき「初犯」に回帰したわけでもない。そもそも夫が暴君になったのは『事業に失敗した』という「起源」を喪失していた(葬った)からであり、だがそれを直接想起させたのでは「市民ケーン」のチャールズ・フォスター・ケーンのように「死んで」しまうので、ここでは誰一人夫に事業に失敗したことを話したり想起させたりする者はいない。撮られているのはそのような過激な方法ではなく、妻のいなくなった家で夫が家事を手伝う、一度追い出した洗濯女をもてなす、鳥かごの鳥に水をやる、洗濯物を3階のアパートの部屋まで運ぶ、乳母のマーサに生活費を渡す、赤ん坊のおむつを替える、娘とシーツの端っこを持ち合って畳んでゆく、洗い物をする、、という日常的な運動の反復であり(この点については後にもう一度検討する)、これらの行動は後に検討する妻の淀みのない家事の遂行とは違ってややぎこちない運動として「前科4犯」的に撮られながらもその行動が身に染みついて来ていることを観察し確かめたマーサはしばらくすると夫の元へコーヒーを持ってゆき、この映画で初めて夫の横顔に窓から差し込んで来るバックライト(サイドライト)が当てられている(『分断』49)。このバックライトは『分断』のシーンによく出て来る照明の修正によってなされる「そのひと」に対する光であり、その瞬間映画的に夫は「赦された」ことになり、その直後、馬車で妻が帰って来るのは当然の成り行きとしてある。どこにも「初犯」的な人物は撮られていない。撮られているのは「前科10犯」的「暴君の常習犯」から「前科4犯」的「夫の常習犯」への回帰である。ヒッチコック論文では「白い恐怖」(1945)、「マーニー」(1964)等で「起源」を想起した「常習犯」が一気に「初犯」へと転落して「運動の死」を迎えるケースを幾つも検討したが「前科10犯」の「常習犯」を「前科4犯」の「常習犯」へと引き下げる作品は皆無である。「裁判長」では「起源」に苛まれる「初犯」を「前科4犯」へ、「牧師の未亡人」では失敗ばかりしている「前科4犯」的牧師を、「あるじ」では「前科10犯」から「前科4犯」へ、どちらも運動論的な細部を駆使しながらそれぞれが有していた本来の「常習性」へと「回心」させていることにおいて共通している。

★乱される日常性~妻アストリズ・ホルム

映画の冒頭、朝の630分、水差しと夫の靴を持って寝室から出て来た妻は、窓のブラインドを上げ、釣りに餌をやり、未だ家事の「初犯」の娘に指示を与えながら朝の家事を淡々とこなしてゆく。まだあどけない息子の世話をし、上階で洗濯をしながら台所で朝食の支度をする傍ら息子の掛け算の99の聞いてやり、やっと起きてきた夫が朝食のテーブルに就くまでのおよそ6分ものあいだ、朝の妻の家事の様子がエスタブリッシング・ショットを交えながら淡々と撮られている。それはあたかも鈴木卓爾「ゲゲゲの女房」(2010)のオープニングで自転車に乗り歌いながら坂道を登ってゆく吹石一恵のように、宮崎吾朗「コクリコ坂から」(2011)で朝の支度を淡々とこなしてゆく海のように、何ら心理的なよどみも停滞もないしなやかな運動によって撮られ続けている一連の細部こそ365分の1の日常性にほかならず、彼らはみな身に染みついた運動によってその「一日」という過程において日々を生きている。その後、夫の登場によって家族の日常は乱されてゆき、エスタブリッシング・ショットは撮られなくなり、『分断』は加速され、妻の自信は揺らぎ、家を出ることになる。乱されてゆくのは淡々とした日常であり妻の「常習性」にほかならない。だがそのような非日常性も家族や乳母のマーサによって少しずつ回復されてゆくと、夫の髪にバックライトが当てられ、家族全員のエスタブリッシング・ショットが撮られるようになり、止まっていた柱時計の振り子を妻が動かし日常が取り戻される。日常性と非日常性のあいだの揺らぎをあらゆる映画的細部によってしなやかに撮り続けている。

★マーサ~マティルデ・ニールセン「起源」◎

夫の元乳母という「起源」を有する使用人(と言うより家族に近い)マーサが撮られているがここでのマーサは妻の母親に相談したり妻が出て行ったあとはひたすら夫の家事を監視し「見ること」をし続けたりと物語上不可欠な役割を果たしている。マーサに限らず『分断』37では妻の母親のクララ・シェーンフェルドがいきなり強烈なバックライトに照らされ、『分断』38ではここしか出番のない医者ヨハンネス・ニールセンの左の額に強い光が当てられ、ラストシーン近くには歯を綺麗に磨いて自慢する息子の顔にペタッと強い光が当てられている。どれもその前後のショットから照明を修正して撮られているが、物語的には何の意味もない1ショットにおける「脇役」に対して突然このような光を当てる傾向は、光とは物語に対して当てられるものではないと言わんばかりの強い意志の現れに見える。「裁判長)(1918)2人の召使い、「牧師の未亡人」(1920)2人の使用人、そしてこのマーサにしてもみな罪の意識も心理的な表情も見せない「見ること」に忠実な「常習犯(メッセンジャー)」たちであり彼らに対する運動論的な眼差しは主人公たちと何ら変わることはない(それ以上ですらある)

■「裁かるるジャンヌ(LA PASSION DE JEANNE D’ARC)(1927)

「起源」✕回想✕罪の意識△

ジャンヌ・ダルクの裁判から火刑までを実際の資料に基づいて「再現」したこの作品では、それまでは審問官の尋問に対して自分は神の子だと主張して譲らなかったジャンヌがみずからを異端と認める書類に署名して「改心」するシーンが撮られている。だがその後ジャンヌは、独房へ戻り、男に髪を剃られて丸坊主にされ、その髪と冠とが塵取りに入れられるのを見た途端、まるで何かに突き上げられるように突然『審問官を呼んでください!』と男に頼み、やって来た審問官を前にジャンヌは前言を翻し『自分の命が惜しくて神を否定してしまいました、自分は神に選ばれた者だとまだ信じています』、と述べ、それを聞いていた修道士のアントナン・アルトーは『この答えは彼女の死を意味する』と呟いている。命拾いできるにも拘らず突然何かに突き上げられるようにして神への道(火刑への道)を突き進むこの衝動的運動は、考える前に体が動く「常習犯」の典型的行動様式であり、またしてもマイケル・マン「ヒート(HEAT)(1995)におけるロバート・デニーロの突然の車線変更を引用しなければならない。ジャンヌは髪と冠とが塵取りに入れられるのを主観ショットで見て突然『審問官を呼んでください!』と叫んでいるがそれらは神へと因果的に結びつく象徴でも記号でもない。それにも拘らず意味のない出来事を見て突如内部から突き上げられるように審問官を呼ぶ彼女の運動はその発端に意味を欠く衝動であり、私は神の子です、何故ならば私は神の子だからです、という「常習犯」の典型的な行動様式にほかならない。「裁判長」で裁判長が突然何かに突き動かされたかのように突如、娘のいる独房へと駆けつけたように、ドライヤーは「常習犯」の運動論的細部を指示する出来事を必ずフィルムに載せて撮り続けている。

★ジョン・フォード

「裁判長」(1918)「牧師の未亡人」(1920)「あるじ」(1925)、「裁かるるジャンヌ」(1927)は一見、主人公が罪の意識を抱いて「改心」したりするメロドラマでありながら「常習性」を回復(指示)させるために身に染みついた運動を撮ることにおいて共通している。悪人がいきなり善人に改心してそれっきり、という「初犯」のメロドラマではなく、罪の意識を有しているとしても心理的なしかめっ面はなく、人間的な葛藤を秘めつつも身に染みついた運動が撮られることで「前科4犯」的エモーションを醸し出すジョン・フォード的メロドラマの世界がここに撮られている。「常習犯」と「初犯」との合間を微妙に揺れ続ける「前科4犯」的運動はハワード・ホークス的「前科6犯」以上にその「後継者」が乏しい領域であり「聖なる作家」という「レッテル」を貼られたドライヤー的運動があの西部劇を撮っているジョン・フォードに接近しているという事実はこの論文を書きながらの大きな驚きとしてある(プリントが50分ほど失われている「むかしむかし(DER VAR ENGANG)(1922)については改心して王子に従順になるお姫様の改心した後の運動の部分が欠落していることからここでは言及しない)『分断の映画史・第二部』でジョン・フォードについてこう書かれている。

『「駅馬車」という映画の『分断』は多くの場合、別々に撮られたショットによって構成されている。なぜ別々に撮るのか。それは『撮られるべくして撮られるショット』だからであり、その人が「そのひと」として撮られているからである。その人を「そのひと」として撮り、「そのひと」と「そのひと」とが切り返される以上、それらが「同じ写真」になることはあり得ない。「そのひと」は世界で「そのひと」しか存在しないからである。そのショットを物語の過程としてではなく「そのショット」として撮るとき、当然ながら「そのショット」は物語の流れから「ずれ」ることになる。イマジナリーラインのずれも、別々に撮られることも、内側から切り返されることも、そして『分断』それ自体も結果に過ぎない。あらゆる絵画がその人を「そのひと」として描くためにそのアングルは基本的に正面からとなるように、映画がその人を「そのひと」として撮る時、斜めから撮るよりも正面から撮ることになり、その結果、「そのひと」が見つめるのは相手役ではなくキャメラであり、そこには光源とは別の「そのひと」のための光が当てられ、その都度照明が修正されるために実際の光とは「ずれ」を生じることになる。「場」よりも「そのひと」を優先するため場所的な関係は不明確になり「そのひと」は場所との関係を失い浮遊する。「駅馬車」とはそういう風に撮られた作品である。従って「駅馬車」の『分断』には『奇妙な同一画面』が分断表⑥の1ショットしか撮られていない。「駅馬車」はその人を「そのひと」として、そのショットを「そのショット」として撮る映画であり「めまい」(1958)「メトロポリス」(1926)のように、ある程度『分断』によるサスペンスを目的にして撮られた作品とは違っている。よくジョン・フォードはマルチ・キャメラの監督と言われることがあるがマルチ・キャメラでその人を「そのひと」と撮ることは決してできない。』~

ここで『ジョン・フォード』を『ドライヤー』に、『駅馬車』を『ミカエル』へ変換すればドライヤーについて書かれた文章となってしまう(確かにドライヤーにおいても人物の不特定性を狙った『奇妙な同一画面』は少ない傾向にある)

■「常習犯」を確かめる

ここまで「改心」したり罪の意識を有している主人公たちについて検討して来たが、「初犯」のまま終わる主人公は一人も撮られておらずドライヤー作品は基本的に「常習犯」の映画として撮られている。今度は罪の意識の乏しい作品について検討する。

■「サタンの書の数ページ(Blade af Satans Bog)(1919)

伝説ではサタンの「起源」について次のように語られる。
①サタンの原罪 光の天使であったサタンは神に反逆して堕落した。地上に降り人間の姿となって人間を誘惑し凋落せしめた。
②神の判決 人間に対するそなたの愚行を続けよ。人の姿で彼らの中に入り神の意志に反することをせよと彼らを誘惑しろ。
③呪い そして神はサタンを呪い語った。人がそなたの誘惑に負けるごとにそなたへの呪いは100年延長される。だが人がそなたを退けるならそなたは千年の罰から解放される。行け、悪行を続けよ!

これがサタンの「起源」であり、地上に降り立ったサタンは神の言いつけ通りに人間を誘惑して「悪」へと堕落させてはいるもののそのたびに神の呪いが100年延長されてしまい、サタンは人間を堕落させる度にみずからの呪いが延長され同時に神の子を堕落させることに罪の意識を感じているものの彼の行動は神の命令に依ることから心理的に停滞されることはなく第一話から第四話を通じて淡々と自らの使命を実行し続けている。彼が罪の意識に苛まれるのは人間が堕落してそれぞれのエピソードが終わる時であり、基本的にサタンの行動は罪の意識に苛まれつつもみずからの性向に忠実な前科4犯的「常習犯」として撮られている。それ以外では、第一話のキリストはもとより、貴族ドン・ゴメス家の人々(第二話)、マリー・アントワネットと伯爵一家(第三話)、電信技士の夫婦、父親を殺された娘(第四話)などの「被害者」たちは拷問されようと脅かされようと死刑になろうと決して人格を変化させることのない極めつけの「常習犯」として撮られている、

■「不運な人々」(1921)~「常習犯」たち

この作品は『エイゼンシュテイン的』であることについては検討したが、「起源」はあやふや、「イワン雷帝・第二部」(1946)以外には回想も撮られずおよそ罪の意識と無縁な「常習犯」が撮られているのがエイゼンシュテイン(特にサイレント期)であるならば「不運な人々」もまた主人公のみならず登場人物がおよそ罪の意識と無縁な「常習犯」として撮られている。主人公のハンネ=リーベ、その両親、姉夫婦、その他みなユダヤ人はユダヤ人でありという運動を続け、敵対する商人と商人の息子、その他ロシア人もまた「改心」する者は一人もおらず、皇帝の(反革命の)秘密警察のスパイであるヨハンネス・マイヤーも何ら罪の意識を有することなくハンネ=リーベの兄を射殺している。その中で唯一、ハンネ=リーベの兄の弁護士ウラジーミル・ガイダロフはユダヤ教徒からキリスト教に改宗し父親から勘当されたという「起源」を有し母親の思い出とのあいだに引き裂かれてはいるものの「改心」することはなく最後までキリスト教徒を貫いている。ここで主人公のユダヤ人一家と対立するロシア人商人の息子を演じているリヒャルト・ボレスラフスキーについて検討する。ロシア人の彼は小さい時からユダヤ人のハンネ=リーベと一緒に育つがその後、反ユダヤの父親と喧嘩し家を追い出され今は自由を満喫していると紹介されている。生粋の反ユダヤ主義の父親と喧嘩をして家を出ているくらいであるから反ユダヤ主義というわけでもなく自由気ままに暮らしている彼は言わばノンポリであり、そんな彼は序盤には、草むらで昼寝をしている時にハンネ=リーベの学友の女学生に石を投げられてからかわれる『分断』⑧、2人で小舟に乗る『分断』⑨、そのあと小舟から降りた女学生との『分断』⑩など実にのどかに瑞々しく撮られている。その後、彼は女学生とハンネ=リーベを密告し、秘密警察のスパイのヨハンネス・マイヤーにたぶらかされて反ユダヤの急先鋒となり「悪役」となるのだが、洞窟の入り口のようなところで鍋を炊いている彼がスパイのヨハンネス・マイヤーに鍋を振舞ってやるシーンなどもまた実にのどかに撮られており、まるでジョン・フォード「駅馬車(STAGECOACH)(1939)で娼婦のクレア・トレヴァーに冷たく当たり続けた「悪役」のルイーズ・プラットとジョン・キャラダインのように瑞々しく撮られている。その後「悪役」となる彼とそうなる以前の彼とは人格的に齟齬を生じているようには撮られておらず、心理的なショットは皆無であり、むしろノンポリはノンポリであり、密告者は密告し、保守主義者は保守し、愛人たちは愛し合う、、という「常習犯」の典型として撮られている。それはあたかも同じくジョン・フォード「三人の名付親(3 GODFATHERS)(1948)で銀行強盗のジョン・ウェインと砂漠で赤ん坊を拾って育てたジョン・ウェインとが人格的に何ら齟齬を生じていないのと同じように、「常習犯」として撮られている限り善玉、悪玉という「役」の転換はあり得ても善人から悪人へという人格の転換は生じない。それはあたかもジョン・フォードが「駅馬車」で(意図しているわけではないがドライヤーの運動を語る時ジョン・フォードが衝動的に呼びかけて来る)、「悪役」のインディアンの女が柱にもたれて歌うその頭に月明かりのうっすらとした光を落としながら3回もキャメラを寄って撮り続けているように、「常習犯」には善人も悪人もいないのだから、商人の息子はノンポリの商人の息子からノンポリの反ユダヤに「役」を変換させたに過ぎない。それを見極めるうえで彼が「常習犯」としての身に染みついた行動を撮られているか「初犯」としての心理的な撮られ方をしているかを見極めることが重要となる。

★「ミカエル」と「Vingarne()(1916)~「初犯」から「常習犯」へ

スウェーデンの監督モーリッツ・スティルレル(Mauritz Stiller)の「Vingarne()(1916)と「ミカエル」(1924)は共にデンマークの作家ヘアマン・ギングの小説「ミカエル」を映画化している作品だが「翼」と「ミカエル」との大きな違いとしては①「翼」は映画内映画として撮られていること。②「翼」の巨匠ゾレは画家でなく彫刻家でありミカエルは彫刻のモデルでありモデルをしているシーンが撮られていること、③「翼」のミカエルは王女のコートを握りしめて匂いを嗅ぐが「ミカエル」のミカエルは侯爵夫人の手袋を握りしめるだけで

匂いを嗅いでいないこと、④「翼」ではミカエルが王女の目を描く時、画家と王女が話し込んでいる時に勝手に描いてしまうが「ミカエル」では画家に頼まれて描いていること。などが挙げられる。

「ミカエル」では撮られていないシーンとしては①ゾレがミカエルの画家として才能を認めてスカウトするシーンが撮られている(「ミカエル」ではミカエルは画家の才能がないのでモデルにスカウトされるシーンが回想で撮られている)、②ミカエルが巨匠に金の無心(心配)をしている時、王女がブティックで浪費しているシーンが回想で撮られている。その後、ゾレは金を封筒に入れて執事を通してミカエルへ渡すとミカエルは「あなたの施しは受けない」と激怒する。③ミカエルが巨匠の彫刻を『5年間は売らないこと』という条件をつけてディーラーに売りその小切手を王女に渡すシーンが撮られている。だがディーラーがその約束を破って売ってしまいそれを知ったゾレが王女の屋敷へ行き『息子を返してくれ』と頼んでいる。④ゾレが発作で倒れるシーンが撮られている。⑤瀕死のゾレがベッドを抜け出し庭の「翼」像まで歩いてきその下で息絶える。

以上は主に物語論的相違だが運動論的には「翼」では画家、危篤の手紙にミカエルはすぐに駆けつけるが間に合わず悲嘆にくれ王女から去ってゆくが「ミカエル」では画家危篤の報に会いに行かず画家が死んだという知らせを聞いても侯爵夫人の腕の中に抱かれたまま眠っている。ここで「翼」のミカエルは罪の意識を大きく有しそれによって王女と別れるという「改心」をしているのに対して「ミカエル」では自分の親代わりである画家が危篤となっても会いにも行かず死を知らされて取り乱しているもののすぐに侯爵夫人に抱擁されてそのまま腕の中で眠ってしまう。確かに侯爵夫人がジャーナリストからの「画家危篤」のメモを握りつぶしミカエルと画家との関係を遮断したことはあるにしても一瞬取り乱しただけでまったく改悛の情を示さないミカエルはスティルレル版に比べて殊更「常習性」の強い人物として「撮り直されて」いる。作品の「リメイク」を見る時にはまずこの運動論的な相違を確かめなければならない。

●執事長~マックス・アウツィンガー

そのミカエルにしてもモデルとしての職業運動は1ショットも撮られておらず、ミカエルを侯爵夫人に奪われて苦悩する画家のベンヤミン・クリステンセンにしても「絵を描く」という職業運動は「侯爵夫人の目を描けない」という消極的な過程においてのみ意味を持つのであり、この作品もまたハワード・ホークス的職業運動ではなくひたすら人間としての「常習性」が撮られている。その過程でこの作品でも執事長という召使が撮られているが、彼はこの映画が始まってからの人物紹介の字幕でミカエルのヴァルター・シュレザークに続いて二番目に『執事長・マックス・アウツィンガー』と紹介されている。その後、侯爵夫人のノラ・グレゴール、ジャーナリストのロバート・ガリソン、そしてようやく画家ベンヤミン・クリステンセンが紹介されていることからすれば、この執事長という一見端役のマックス・アウツィンガーがいきなり紹介されるこの作品もまた「召使いの映画」の一端を担うことを予感させている。真っ白なあご髭を生やしたこの執事長はひたすら忠実に職務をこなしてゆく「常習犯」でありみずからの意見を述べることもなく物語に直接的な因果的影響を及ぼすわけでもなく来客を画家に知らせ画家の身の回りの仕事をこなしてゆくに過ぎない。何かしらの影響があるとすれば『分断』55でミカエルが絵を持ち出したと画家に伝える時であり、ここではキャメラを正面から見据えた執事長の照明の修正されたクローズアップへ何度も切り返されているもののそれが次の因果的物語を起動させるわけでもなく、『分断』59では瀕死の画家に呼ばれて手を握りしめ涙を流している執事長の姿が撮られているが、これもまた物語を起動させる出来事ではなく、そのような「ただの召使い」がまたしても二番目のクレジットで紹介されている。この作品で大きな物語と言えば夫が妻の浮気相手と決闘するくらいだが、その夫婦にしても物語の進行上不可欠な存在ではなく、ただ「死」という事実を露呈させるためのマクガフィンのような存在であり、画家が侯爵夫人の目を描くことができないことですべてが起動しそれ以外は小さな細部を積み重ねてゆくこの作品では、執事長もまたそのような物語の過程に紛れ込み、事実は伝えても文句や意見を言うこともなくひたすら「見ること」に忠実なメッセンジャー(常習犯)として撮られている。

★「そのひと」と『分断』

「常習犯」とは「起源」から遠いところにおける無色透明な運動であり「不運な人々」におけるロシア人商人の息子のように善玉、悪玉という「役」の転換はあり得ても「常習犯」である限り善人から悪人へという人格の転換は生じることはない。それと同じようにして『分断』において結果として露呈する「そのひと」は物語性を剥ぎ取られた透明な存在であり善玉、悪玉はあり得ても善人、悪人という善悪の区別が生じることはない。

★「あるじ」(1925)~『分断』・「常習性」・「裸の窃視」

「その人」として撮られているか「そのひと」として撮られているかは「物語的窃視」と「裸の窃視」の関係に似ている。暴君の夫が妻の家出によって「前科4犯」程度の「常習性」へと回心する運動として、家事を手伝う、鳥かごの鳥に水をやる、洗濯物を部屋まで運ぶ、マースに生活費を渡す、赤ん坊のおむつを替える、娘とシーツの端っこを持ち合って畳んでゆく、洗い物をする、等について検討したがこれらの内、鳥に餌をやっているシーンは娘によって盗み見され(『分断』43)、赤ん坊のおむつを替えているシーンはマーサによって盗み見され(『分断』48)、洗い物をしているシーンは妻によって盗み見されている(『分断』50)。「裸の窃視」は見られている者の物語性が限りなく剥ぎ取られた裸性の運動を盗み見る「見ること」の眼差しであるのに対して「物語的窃視」は物語的な意味のある行動を「読むこと」の眼差しであり、確かに「あるじ」におけるこれらの「窃視」は「あの暴君だった夫が善い人になった、、」という善悪の物語が付着した「物語的窃視」=「その人」に接近しているようにも見えるが、西欧の映画では成瀬映画の「背中」だけを撮るような物語性を極限まで剥ぎ取られたレヴェルの「裸の窃視」は撮られない傾向にあり、「あるじ」のこれらの盗み見も厳密には「善い夫」という善悪を「読むこと」をシャットアウトしてはおらず成瀬己喜男的「裸の窃視」までは行かないにしても重要なのはこれらがどう撮られているかに尽きる。鳥に餌をやるシーンの『分断』43では、鳥に餌をやった後、夫は鳥を見て『かわいいやつだな、、』と呟(つぶやいて)いているがその時、夫は椅子に座り靴ひもを結んでいる、その手を休めてふと鳥の方を見て呟いている。この「靴ひもを結んでいるときに」という運動が極めて重要なのはいきなり鳥を愛でるという中心の運動を撮るのではなく靴の紐を結ぶという他の運動をしている時の「ふと」という周辺的な咄嗟の行動として鳥を愛でる運動を起動させることで鳥を愛でる運動から心理的な要素を省くためのマクガフィンとして撮られているからであり、これによってこの夫の鳥への眼差しは頭でなく体で生じた身に染みついた行動であることを画面に焼き付けようとしている。赤ん坊のおむつを替える『分断』48で夫はAおむつを手際よくしつらえB膝で折り畳んでからC赤ん坊を抱き上げD椅子に座ってピンを口にくわえながらおむつをつけ替えているが、そんな夫の姿をドアを開けて盗み見しているマーサはDを見るまでもなくCを見た時点でドアを閉めて盗み見を終了させているが、これは既にこのCの時点で夫の運動が身に染みついているとマーサは見たからであり、さらにDによって夫がさり気なくピンを口にくわえながらおむつを替えているのもまた彼の運動が身に染みついていることを現わすマクガフィンであり、さらに妻が夫を盗み見する『分断』50ではなんら淀みもなく淡々と皿を洗う夫が撮られているのも夫の身に染みついた運動を「見ること」によってその「常習性」をフィルムに焼き付けるためにほかならない。これらの家事のシーンは撮られなくても物語を進めることができる些細な出来事でありながらそれを敢えて『分断』し、「身に染みついた運動」としての細部を施し、さらにそれが「盗み見」という、見られていることを知らない者を「見ること」として撮られることで夫の家事はより裸性を帯びた透明な「常習性」として現れて来る。

★物語から離れる

『分断』、「常習性」、「裸の窃視」、と検討してきたが共通しているのはいかにして物語という鎖から人間を解き放つかに尽きており、その結果として現れる「そのひと」は物語の進行とは関係のない「そのひと」でありそこに役柄上の優劣はあっても存在としての優劣はない。『分断』は「常習性」と連動し「裸の窃視」とも通じながら「そのひと」を露呈させる細部としてある。内側からの切り返しによる『分断』はすべてが「そのひと」として撮られているわけではなく『分断』はその撮られ方によって「その人」とも「そのひと」ともなり「初犯」的な人物であっても「別々に撮られている」のであれば内側からの切り返し表では『分断』に含めて検討しているが、「そのひと」は必ずや「常習犯」であり巻き込まれ運動ならば「そのもの」として露呈する。

★分離

同じような出来事に『分離』がある。『分断の映画史・第二部』では『分離』について検討しているので詳しくはそちらに譲るがドライヤー映画にも『分断』の傾向は顕著に見出すことができる。

▲「サタンの書の数ページ」(1919)

『分断』⑱ アントワネットの独房で地面に落ちる冊子はそれを落とした女という物語から『分離』された「冊子だけ」が撮られている。

▲「牧師の未亡人」(1920)

『分断』27のあと、小屋の壁にもたれながら座って笛を吹いているセフレンの頭に窓から顔を出した使用人がバケツの水をかけるシーンでは、窓から顔を出す使用人とバケツが撮られてから下へパンダウンし下で笛を吹いているセフレンの頭に水がかかり始めるところが撮られているがその時には使用人とバケツはフレームの外部へ出ていて流れ落ちる「水だけ」が撮られている。ショットは持続しているが水を流れ出す物語(使用人とバケツ)から『分離』された「水だけ」が撮られている。

▲「不運な人々」(1921)

『分断』⑮のあと、 揺れている「揺りかごだけ」がそれをペダルで揺らしている父親から「分離」されて揺れている。

『分断』⑳で妻がグラスを床に叩きつけて割るショットは、床で割れるグラスがグラスを投げた妻という物語から『分離』され「グラスだけ」が撮られている。

『分断』33洞窟の上からスパイが下の商人の息子に砂を投げ落とすシーンでは商人の息子にかかる砂は落としたスパイという物語から『分離』された「砂だけ」が撮られている。

『分断』71 階下に舞い落ちる羽はそれを二階から舞い落としている男という物語から『分離』されて「羽だけ」が撮られている。

▲「あるじ」(1925)

『分断』⑩ 父親の背中に当たる雪玉がそれを投げた少年という物語から『分離』され「雪玉だけ」が撮られている。

『分断』33 乳母に向かって投げられる洗濯物はそれを投げている父親という物語から『分離』され「洗濯物だけ」が撮られている。

こうした『分離』の性向は内側からの切り返しによる『分断』から遠い所にある現象ではなくそのどちらもがサイレント初期短編のある種の記憶として見出すことができる。重いキャメラが一台しかない無音の時代、物を投げる、落とす、という運動はロングショットで投げる主体と投げられる客体を同時に1ショットで撮る時代から内側からの切り返しによって『分断』して撮られるようになる。そうしたサイレント映画の名残は時代が変わってからも記憶として残存し続け時として衝動のように画面にあふれ出ることになる。

■「グロムダールの花嫁(Glomdalsbruden)(1925)起源✕回想✕罪の意識◎小作人

プリントが50分ほど欠落しているこの作品は小作人の息子トーレと地主の娘ペリトが結婚の約束を交わしたが娘の父親が勝手に富農の息子との結婚を決めてしまうという物語であり、その後、家出した娘が落馬をして怪我をするとトーレは自分と付き合っているせいで娘が落馬したのだと罪の意識を有し、また小作人の息子との結婚を反対していた娘の父親も牧師に説得されると「改心」して結婚を認めたりしているが、どちらも心理的になることはなく娘のペリトもまた「常習犯」としての運動を続けている。ところでこの物語を見ていると娘ペリトの母親(父親の妻)は不在でありそれについて言及されてもいない。プリントが50分ほど欠落していることから欠落部分で言及されているのかも知れないが見たところそうした気配がこのフィルムにはない。地主の家の居間にそれを匂わせる写真なり遺品は飾られておらず、何かしらの肖像画が壁に飾られているようだがどうやらそれは男性の肖像画であるらしく娘の部屋にも母親を思わせる物は置かれていない。初めてペリトとトーレの家族が一緒にテーブルに就いたシーン、また結婚式でも母親に対する言及等は一切ない。どうもこの映画は趣旨として母親の不在に関して言及しない作品のように見える。「奇跡」(1954)も母親不在(妻不在)の一家が撮られているがそこには母親(夫の妻)の写真が飾られ夫による『できた妻だった』との言及もされている。父親は三男の結婚に反対しているがそれは三男の幸せというより宗教的対立からの反対であり主題としての『母親不在』の映画における父親像ではない。「グロムダールの花嫁」では牧師の説得によって父親が娘の結婚を認めた後、馬車で待っていた娘が久方ぶりに帰宅すると父親は涙を流しそこにバックライトが当てられている。何故泣くのか。その後、娘からスープをもらって飲む時にも父親にはバックライトが当てられている(『分断』33)。何故この父親がバックライトを当てられるのか。反対していた娘の結婚を承諾した優しい父親だからという「善悪」に対して光を当てることなどあり得ず(「あるじ」(1925)の『分断』49で父親に当てられたライトは彼が「善人」になったから当てられたのではない)、身分の低い小作人の息子に娘を嫁にやる平等精神を賛美するような紋切型の精神もここにはない。父親はベッドに寝転がって牧師と話している内に結婚を許すことになっていて何ら心理的な「改心」のショットも撮られていない。彼は変節していない。これは フランク・キャプラ「或る夜の出来事(IT HAPPENED ONE NIGHT)(1934)と同じ形式であり、父親ウォルター・コノリーは一人娘クローデット・コルベールに金持ちの男と結婚させようとして娘は逃げる。コルベールには母親がいない。だがそれについて映画では一切の言及もなされずひたすら父親は愚鈍なまでに娘の幸せを求めるが無骨な男親に母親代わりが務まるわけもなく娘を悲しませることしかできない。ここには男手一つで娘を育てた父親と娘との絆があり、父親には妻との日々がある。あの父親の涙には亡き妻(との約束)が重ねられている。それがすべて省略されひたすら意地悪で強引な父親しか撮られていない。ひとつの字幕も挿入されていないこの父と娘のシーンは「見ること」のみがもたらす省略のエモーションが込められている。この「父親」を「兄」に変えるとそのままジョン・フォード「静かなる男(THE QUIET MAN)(1952)のヴィクター・マクラグレンとモーリン・オハラの兄妹になる。ここでもまた2人の両親の不在について一切の言及等はなされておらずヴィクター・マクラグレンは映画史上最悪の兄のように描かれている。映画史とはそういうものかもしれない。まるで何かに突き上げられるように人は亡き母を省略する映画を撮り、また人は内からの何かに強迫されるように「ジョン・フォード」を想起し続けるのである。

■「吸血鬼(VAMPYR)(1931)起源◎罪の意識✕回想✕

青年アラン・グレイが吸血鬼の怪奇に巻き込まれてゆく運動のようにも見えるこの作品は『悪魔信仰や吸血鬼の迷信の研究に没頭するあまり夢想家となり現実と超自然の境界がなくなった青年、アラン・グレイの不思議な体験』、と字幕にあるように青年の「起源」が語られる人間の運動であり(巻き込まれ運動の主人公には「起源」がない)、吸血鬼の研究家としてのスキルがあり吸血鬼の本を読み召使いと共同して吸血鬼に杭を打ち滅ぼしていることからしても研究家のスキルに基づく職業運動のようにも見える。だが夢想家で現実と超自然の境界がなくなったと語られているように彼の研究家としてのスキルは無きに等しく吸血鬼に杭を打ち込む時も召使の作業を途中から手伝っただけで『職業運動』からは程遠く、より幅広く人間の映画として撮られているように見える。ただそうした「起源」は字幕で語られるだけで青年自身は「起源」をまったく忘却しておりその運動はほとんど心理を現わさない強い「常習性」に支配されている。聞こえてくるのは音だけで人間の意見と明快な会話は聞こえて来ずコミュニケーション不在の一方的な主観ショットでひたすら青年が「見ること」を続けて行くこの作品は棺の中からの死者の主観ショット(『分断』484950)や髑髏の主観ショット(『分断』⑯)まで撮られた極めて主観ショットの多い「見ること」の映画として撮られている。ここでドライヤー作品における主観ショットの数と『分断』に対する割合を見てみると

左から『分断』の数-主観ショットの数-主観ショットの割合

■「裁判長」(1918)       23-130.565

■「サタンの書の数ページ」(1919)

第一話  13-2

第二話  16-7

第三話    29-16

第四話  23-12

全四話  81-370.457

■「牧師の未亡人」(1920) 42-15 0.357

■「不運な人々」(1921)  74-200.270

■「むかしむかし」(1922) 33-80.242

■「ミカエル」(1924)   61-18 0.295

■「あるじ」(1925)    60-160.266

■「グロムダールの花嫁」(1925) 46-190.413

■「裁かるるジャンヌ」(1927) 計測していない

■「吸血鬼」(1931)     56-360.643

青年の主観ショット56290.518

■「怒りの日」(1943)    33-70.212

■「奇跡(1954)       10-40.4

■「ガートルード(1964)      4-10.25

「吸血鬼」56ショット中36ショットが主観ショットでありその中の29ショットが青年による主観ショットが占めている。他の作品での主観ショットは一人の人間による「見ること」において一貫していないことからすれば「吸血鬼」における青年の主観ショットの多さは際立っている。「吸血鬼」は意見もコミュニケーションもない「見ること」の映画であり「見ること」とはヒッチコック論文第一章で『「見ること」とは本質的に不確実な出来事であり「読むこと」からかけ離れた不確実性に満たされた領域として分節化を拒絶しながら我々の瞳を捉えることでサスペンスを生み出すのであり、~ヒッチコックは我々の奥底に潜んでいる「見ることの不確かさ」に対する恐怖をサスペンスにして撮っている』と書いたように極めて不確かな出来事であり見られた出来事は無色透明な運動となって見ている者に分節化された回答を与えることはない。この作品が封切当時大きな不評を買ったとされているのもひとえに青年の心理をまったく現わそうとしない強い「常習性」と「見ること」の不確実性から来る大衆社会の戸惑いとして理解できる。

■「怒りの日(Vredens Dag)(1943)~魔女は魔女

魔女の宣告を受けた女からあなたの死んだ母親も魔女だったと聞かされたアンネは驚くが次第に魔女としての自分に目覚めて年の離れた夫を呪い殺してその息子との愛に生きようとするこの作品は、自分が魔女だと知らなかったアンヌが魔女だった母親の力を知って魔女に目覚め(回心)、それに対していつものようにドライヤーのキャメラマンは照明を修正しながら彼女を「そのひと」として撮り続けている。終盤、魔女だと疑われたアンネが棺の中の夫に向かって『私は魔法の力であなたを殺しました、そして魔法の力であなたの息子を誘惑しました』と告白し涙を流すがそのあと『すみませんでした』とは言っていない。改心もしていない。彼女は自分が魔女であることから抗うことしていない。魔女は魔女でしかありえない自分の運命を受け容れている。ドライヤー映画はみずからに忠実である者を称賛するが仮にそれが「悪」から「善」へであれ「変節」する者を美化することはない。『分断』28でアンネが夫を呪い殺すシーンでもまたアンネの照明がその都度修正されているが、ここでもまた魔女は魔女として撮られているのでありそこに「悪さを企む」心理的なショットは撮られておらず善悪は露呈していない。その外にもアンネの1ショットだけ照明の修正されたクローズアップが多く撮られているこの作品は、仮にアンネの魔力に依ることではあれ優柔不断な息子に『バックライト』が当てられることはなく、年がらもなく若いアンネを妻にして彼女の青春を奪ったことに罪の意識を抱いている牧師が「そのひと」として撮られることもない。強い「常習性」に支配されているアンネが修正された照明で『死んで!死んでほしいの!』と夫に迫るショットは美しいとするほかにない。素直にこの作品を見るならば、魔女は魔女であり、老人は老人であり、その母親はその母親であり、息子は息子である以上のことはなにひとつ撮られてはいない。

■「奇跡(ORDET)(1954)

『罪の意識表』を見て行くと「吸血鬼」(1931)以降、主人公に罪の意識を有している者がいなくなって「常習性」が強くなり、それにつられるようにショット数が少なくなり切り返しもクローズアップも減少してゆく。

★コメディ 

宗派の違う仕立て屋ペーターの家の娘アンネと結婚したいという三男のアーナスを嫁のインガは代わりに私があなたのお父さん(モーテン)を説得してあげるわと励まし、義父とふたりきりになったインガはもし認めて下されば日曜の夕食にうなぎのフライを作って差し上げると義父を買収するがこの土地でみずから布教して宗派を根付かせた義父は宗派の違う家の娘との結婚など許そうとしない。だがアーナスが帰って来て宗派の違いからアンネの父親に結婚を断られたと聞くと父親モーテンは私の宗教をバカにしているのかと激高し、結婚を認めさせに仕立て屋の家に行くぞとアーネスを促し『今日の父さんは物分かりがいい』と言うアーネスに『それはいつものことだ』と返して2人で意気揚々と仕立て屋の家へ乗り込んでいく。このあたりは何かしらライオネル・バリモアをイメージさせる父親役のヘンリック・マルベアの演技もあって実に愉快な展開となっているのだが、その後、乗り込んだ父親と仕立て屋がお互いの宗教をけなし合い、あろうことか父親モーテンが仕立て屋に改宗を迫られたあげくにあんたは地獄に落ちると言われたあたりでこのコメディは完成を迎え役割を終えている。そもそもこの仕立て屋の家へ乗り込むシークエンスはインガの容態が悪化したという電話が仕立て屋の家にかかって来てそれが居合わせた父親に伝えられ、ほら見たことか天罰が下ったと仕立て屋にあざ笑われて大喧嘩することを目的に撮られたマクガフィン的な出来事であり、そのために父親は仕立て屋の家に乗り込む必要があり、だが結婚に反対している者同士、乗り込む理由がない。そこで脚本家(ドライヤー、あるいは原作者)が苦心して編み出したのが『結婚に反対している父親が結婚に反対されたから結婚に賛成する』というウルトラCであり、かくしてめでたく仕立て屋の家へ行くことができたこの父親を笑わずしてどこで笑うかという上質な(ばかばかしい)コメディがこの一見深刻そうな宗教物語の中に織り込まれている。

★ヒーロー伝説

一度死んだ人間を生き返らせるという運動は映画の世界であってもうそっぽくなるのが通常でありそこに「史劇」としての「ほんものの神」というお墨付きが撮られて初めて見ている者たちは奇跡が起きると信じられたりするのだが、信じることは疑うことの対照としての知的な活動であり信じたり信じなくなったりする「起源」の領域の出来事に過ぎず、信じられることで惹き起こされるのは物語上の奇跡であって映画的な奇跡ではない。父親、牧師、医者など敬虔な信者たちは神を知的に信じているだけで信じることを超えていない。奇跡を起こすのは我こそは神の子なりと触れ回り周囲から頭がおかしくなったと思われているただの男ヨハネスであり、彼は自分は神の子だと信じてもいない。「起源」をすっかり喪失し『我こそは神の子なり』としている彼が、自分が神の子だと信じることはあり得ず、彼は神の子なのだから神の子をしているに過ぎない。『私は神の子だ、なぜならば私は神の子をしているからだ』という究極の解答こそヨハネスに相応しい。人のものとは思えないぶっきらぼうで抑揚のない言葉でしゃべり続ける彼がゆったりとした長回しによって撮られ続けているのは彼が知性の世界に生きていないことを現わしており彼は「起源」をまったき喪失した究極の「常習犯」として撮られている。だがヨハネスはインガの亡骸の前で失神したあと失踪し葬儀の日に帰って来ると初めて父親のことを『お父さん』と呼び『理性を取り戻した』と語っている。ヨハネスは「起源」を想起して失神し理性を取り戻したのであり、インガの復活を願う時『私がイエスの名を呼ぶと、ママは生き返る』~『イエス・キリストよ、お助けください』と祈っているように彼は「起源」を想起することで「神をしている」者から一人の「信じている」者=「信者」へと回帰している。だが神の子から信者へと回心しながらも変わることなく奇跡を起こそうとしているヨハネスは依然として信じることを超越している超「常習犯」であり、そこへ年端も行かないもう一人の「信者」がやって来てヨハネスの手を握る。祖父に言わせると『あの子にはなにもわかっとらん、まだ幼すぎる』といわれる少女もまたヨハネスと同じように奇跡を信じていない。あって当然だと思っている。『おじさん、急いで、早くして』と、まるでクリスマスのプレゼントを待ちきれない子供のような笑顔でヨハネスの手を握り奇跡が起こるのを今か今かと待っているこの少女もまた信じる、信じないという知的な領域を超えた「常識外(常習犯)」なのだ。映画の奇跡を起こすには信じることを超える衝動しかない。小津安二郎「麦秋」(1951)の原節子について『ヒッチコック論文第三章』でこう書いている。

『「常習犯」の言動は因果の流れから自由であるがゆえに因果的道徳によって既になにかを諦めかけていた人たちに時として大きな夢を与えることになる。『よかったよかった、、』と杉村春子を驚かせて号泣させてしまい、続けて突如発せられた『紀子さん!、パン食べない?アンパン!』というなんの脈絡のない言説は、因果の流れから解き放たれた彼女の叫びであり、意味もないところに湧き出す感動であり、そのようなエモーションを授けることのできる「古い者」をヒーローと呼ぶ』

■「ガートルード(GERTRUD)(1964)

『罪の意識表』を眺めて見ると作品を撮るにつれドライヤー的運動は次第に罪の意識を有する主人公が少なくなり「常習性」が強まって来ている。特にトーキーになった「吸血鬼」(1931)以降、罪の意識を有する主人公は皆無となりジャンヌのように苦悶したり「あるじ」(1925)の夫のように「回心」したりという主人公も撮られなくなる。それはあたかも『論文ヒッチコック・第三章』においてジョン・フォードは『「リバティ・バランスを射った男」(1962)のジョン・ウェインをして『「捜索者」(1956)あたりからから顕著となり「騎兵隊」(1959)「馬上の二人」(1961)「荒野の女たち」(1965)へと続いてゆく「残虐の映画史」の系譜の中に密かに名を連ねている』と書いたことがここでも妥当している。特に「奇跡」のヨハネスと「ガートルード」のガートルードは一瞬たりとも自分を曲げず罪の意識のかけらもない極め付きの「常習犯」として撮られておりそうした主人公は周囲の者たちを傷つけ不安に陥れる。それが「残虐な」映画史であり「常習性」が強まれば強まるほど人は「荒野の女たち(SEVEN WOMEN)」のアン・バンクロフトのように、「奇跡」のヨハネスのように、ガートルードのように、孤独になり周囲から隔絶されることになる。

『分断』、長回しと「常習性」

『分断』とは内側からの切り返しに限らず「その人」という物語の中から運動を取り出し「そのひと」をあぶり出す過程であり「常習犯」とは「起源」=物語から遠ざかり運動へと純化してゆく過程であることからするならば「そのひと」を撮り続けているドライヤーが「常習犯」の映画を撮ることは必然としてある。ドライヤーは基本的に「常習犯」の映画でありそうした傾向は長回しの映画として撮られている「奇跡」(1954)、「ガートルード」(1964)でさらに加速している。それについてはまた語る時が来るかもしれない。

★編集

「ガートルード」(1964)についてドライヤーはこのように語っている。『私は結果に大いに満足しました。すべての仕事が撮影の段階ですでになされただけになおさらです。編集では厄介な問題はなにもおこりませんでした。編集は三日間で終わったのです。完全に、、、最終的に、三日間で終わったのです。だから、私は進歩したわけです。『奇跡』の編集には5日、『怒りの日』の編集には十二日かかったのです。それ以前は、私は編集に一カ月ないしはそれ以上もかけていたのです』(作家主義404)

『分断』の数を見ただけで編集の苦労は想像できる。編集に一月以上かけるのはもう無理なのかもしれない。ドライヤーは将来について語っている。作家はインタビューで頻繁に嘘をつくが、彼が長回しの映画に自分の未来を重ねていたことは、おそらく間違いない。

★内側から切り返すこと

長回しで「ミカエル」(1924)が撮れるわけもなく次のドライヤーは違った「ミカエル」を撮ることになるだろう。「奇跡」(1954)のあの少女はまるでサンタクロースのプレゼントを待っている子供のような笑顔で今か今かと母親の復活を待っている。その顔を撮る時、『私は、ロングテイクが未来の映画を表していると信じています』と語ったとされるドライヤーはふと気づくとみずからカットを割って少女のクローズアップを撮り、棺に横たわるインガへと内側から切り返し、もう一度少女のクローズアップへと内側から切り返している。ヴィクトル・エリセは22年ぶりに撮った長編「瞳をとじて(CERRAR LOS OJOS)(2023)で思い出したように『分断』の映画を撮っている。長回しは未来へ向かい切り返しは過去から衝動的にやってくる。「奇跡」(1954)から10年の歳月を経て撮られた「ガートルード」の最後の瞬間は、数十年ぶりに会ったガートルードと医者のアクセルが別れるとき、2人が戸口で『正常な同一画面』に収められたあと、去りながら振り向いて手を振るアクセルと、戸口で手を振り返すガートルードとのあいだが、3ショット内側から切り返されそのまま終わっている。まるで映画とはこうやって終わるものだと言わんばかりの余韻を残しながら。