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『分断の映画史・第四部』~カール・ドライヤー
第二章 古典的デクパージュと外側からの切り返し
★「ジャンヌダルク裁判」(1962)における外側からの切り返しと『奇妙な同一画面』の関係を検討したが、ここから古典的デクパージュと外側からの切り返しについて考察する。人は一枚の抽象画には耐えられても『90分の抽象画』は耐えられない。モーションピクチャーは必然的に物語を要請するシステムであり古典的デクパージュとはその「必然」から要請される強固なシステムである。
『論文ヒッチコック・最終章』で以下のように書いている。
『~古典的デクパージュと言われる映画の撮り方であり、それは登場人物の行動を心理的に分析し、それを分かり易く分断して提示する編集方法によって提示することで観客に「納得」という安心をその都度プレゼントするところの心理映画の手法である。異質なものではなく均質なものを、不平等ではなく平等を、Aが話している時はAを撮り、Bがしゃべり出すとキャメラはBへと切り返されることで画面が物語的に連鎖してゆく古典的デクパージュは最後にカッティング・イン・アクションでキャメラを引いて全体像が映し出されると、見ている者たちは過不足なく言語的分説化に包まれた「読める」画面に癒されることになる。映像が会話を主導するのではなく会話が映像を従えて進んでゆく。運動の優位から物語の優位へ、「すること」から「であること」へ、「見ること」から「読むこと」へ。ハリウッド映画という範疇には倫理規定のみならず、あるいはそれ以上に商業的成功を見越した大衆の支持が大きく要求されることから、観客の見たくないもの、不快なもの、理解できないこと等、観客を不愉快にする出来事=「すること」は極力回避しなければならない。』
ここから以下のことが導き出される。
A物語を過不足なく語るために人物が一人しか画面の中に映らない内側からの切り返しよりも2人同時に映る外側からの切り返しが多くなる。
B一度に多くを撮るためにキャメラは一台ではなく二台となる。
C切り返しによる照明は人物を照らすものではなく場を照らすものとなり明るくなる。装置、美術もまた人物でなく場によって固定されている。
Dスタジオには常にAとBの2人が揃いAはBに対して言葉を発しBはAに対して言葉を発する。AはBを見ながら、BはAを見ながら言葉を発しているのだからキャメラを正面から見据えることはなく、結果としてイマジナリーラインは合わされることになる。
E内側から切り返される場合、AとBとは現場で向き合っているのだからそのあいだにキャメラを置くことはできず、キャメラは三角形の支点に置かれ切り返しは正面からではなく斜めからなされることになる。
F古典的デクパージュにおいてはエスタブリッシング・ショット(『正常な同一画面』)が随所に挿入される。エスタブリッシング・ショットは空間的な状況を観客に把握させ物読むことを促進させる。
このような特徴をひとつにまとめると、『古典的デクパージュ』とはショットを物語に従属させるあらゆる撮り方を差し、その一つが外側からの切り返しという方法であり、まずはその数、比率を出して見つめてみよう、というのが『内側からの切り返し・外側からの切り返し表』の趣旨である。そうして見てみると、ドライヤーの作品では圧倒的に内側からの切り返しが多く、外側からの切り返しは少ない。
■『古典的デクパージュ的人物配置』とはなにか
ここでまず『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』においてその前提となる『古典的デクパージュ的人物配置』について検討する。近距離から向かい合っているAとBとがいるとする。まずAの右斜め後方からAの後ろ姿を取り込みながらBを撮る。このBはクローズアップの場合もあればフルショットの場合もあり、正面からの場合(Bがやや左を向いている場合)もあればやや斜めからの場合もある。Aは斜め後方から撮られているので後頭部、耳、頬、鼻などは見えるが多くの場合、瞳は隠れていて見えない。これが『古典的デクパージュ的人物配置』でありこれを今度はBの左斜め後方から切り返すと、AとBとが逆になる。これが『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』であり『古典的デクパージュ的人物配置』とは『外側から切り返すための人物配置』をいう。『古典的デクパージュ的人物配置』が撮られた時、非常に高い確率でそのまま外側から切り返される。『古典的デクパージュ的人物配置』が現れた瞬間、あっ、外側から切り返される、と直感できる人物配置、それが『古典的デクパージュ的人物配置』である。外側から切り返すための人物配置なのだから当然ではある。
★なぜ外側から切り返すのか
1リアル
一番大きな理由はこれだろう。外側からの切り返しの場合、2人の人物がいるとき2人を同時に画面に収めることになる。内側からの切り返しの場合『分断の映画史・第三部』の「リオ・ブラボー」で検討したように、2人が現実に向き合っていることが証拠立てられる(「リアル」)のは、内側から切り返された相手が持続するそのショットの中でそのまま向かい合っている相手に接近するかキャメラがトラックバックで引かれることで同一画面に収められて初めてであり、内側から切り返され続けている限り永遠に「リアル」な瞬間は訪れない。内側から切り返され続けエスタブリッシング・ショットの不在のまま終わる多くのドライヤーの切り返しは「リアル」とは正反対の領域にある撮り方ということになる。対して外側からの切り返しの場合、常に2人が現実にそこに存在することの「リアル」を証拠立てることができる。だがこの「リアル」は「2人が現実にそこに存在して向かい合っている」という「リアル」であり、ゴダール的に表すならば「言われた瞬間の真実」ではなく「言われた内容の真実」に過ぎない。演劇ならば現実に舞台の上にその俳優がいることの「リアル」であるが、演劇に対して実際にそこに俳優がいないスクリーンの「そこにいるリアル」とは極めて空しい「複製」的にものにならざるを得ず、それにも拘わらずこうした外部的「リアル」を求めてしまう傾向こそが古典的デクパージュ的なるものにほかならない。2人いる人物が「現実に」画面の中に2人として収められているという事実は物語的内容の整合性であり「その人」が「そのひと」として撮られることによるスクリーン内部の驚きではない。ハリウッド映画創世記の切り返しは1911年の後半あたりから内側からの切り返しによって始まり外側からの切り返しが撮られるようになるのはずっとあとの出来事である。
2キャメラ2台で撮ることができる
『古典的デクパージュ的人物配置』で「斜め後方から切り返す」とあるのは、真後ろから切り返した場合、2台のキャメラで撮るとすると相手の背後のキャメラがこちらのキャメラに映ってしまうからであり、だからこそ「やや斜めから」切り返すわけだが、その状態で2台のキャメラで2人の会話を撮りあとで切り返されたように編集される場合『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』となりインスタント的撮り方に接近する。『古典的デクパージュ的人物配置』による外側からの切り返しとは『古典的デクパージュ的人物配置』から二台のキャメラで撮っているか一台でも照明等の習性がなされておらず全体を明るく照らした光で「インスタント」に撮られた可能性を否定できない切り返しをひとまず指すとしよう。内側からの切り返しについても正面から切り返されていないかぎり内側からの切り返しは2台のキャメラで同時に(インスタント的に)撮られている可能性を否定できない。そうした可能性を探る要素として照明の修正、イマジナリーライン、成瀬目線、オフオフ、などが手掛かりとなる。
3照明を2人同時に当てることができる。
人物がくっついているのだから照明もひとつで済む。もちろん外側から切り返される度に照明が修正されている場合も現実には多々あり、この点についてはドライヤーについて検討するが、基本的にひとつひとつではなく、2つ一緒に、という発想だから「その人」が「そのひと」として光が当てられる確率は減少することになる(増えることはない)。
★1920年代
『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』が撮られた「起源」は不明だが1920年にジョージ・メルフォードによって撮られたロスコー・アーバックル主演「一網打尽(the round up)」において既に多用されていることからしてこの20年代前後に狙いをつけてもう少し調べて行く予定だが、ハワード・ホークス「港々に女あり(A GIRL IN EVERY PORT)」(1927)のラストシーンではヴィクター・マクラグレンとロバート・モンゴメリーとのあいだで8ショット連続して『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』が撮られていたりするので、少なくとも1920年代後半には根付き始めていると見られる(以降の論文に譲る)。
■ドライヤーと外側からの切り返し
ジョン・フォードにもハワード・ホークスにも見出すことのできる『古典的デクパージュ的人物配置』からの外側からの切り返しがカール・ドライヤーの作品には基本的に見出すことはできない。
★真後ろからの切り返し
「牧師の未亡人」の外側からの切り返し表①②ではそれぞれ外側からの切り返しが撮られているが真後ろから切り返されているためにキャメラの位置からして1台で撮られていることがわかる。「サタンの書の数ページ」(1919)第三話①や「不運な人々」(1921)⑤など、非常に多く真後ろから切り返されているが、『真後ろからの切り返し』は外側からの切り返しとミックスされる時、古典的デクパージュからは異質の視点転換としてある。既に検討した「ミカエル」(1924)『分断』⑮では、侯爵夫人の真後ろから照明を修正して外側から切り返されているが、真後ろから切り返されているということは基本的にキャメラは1台ということであり、真後ろから切り返されている外側からの切り返しが極めて多いということは、その撮影の傾向が「インスタント」とはかけ離れていることを示唆している。
★狭い空間から切り返す
「牧師の未亡人」(1920)外側からの切り返し④では、■未亡人の看病でマリが回復してから、昔話をし終わった未亡人の膝にセフレンが顔を埋めた後、未亡人の外側から切り返されている。壁際でキャメラの入らない位置から(壁をはずすか場所を変えてから)敢えて外側から切り返されて撮られ、セフレンの照明が修正されている。『分断』32でも検討しているが、わざわざセットを無化するようなことをしてまでもそこにキャメラを置いて切り返すという傾向は明るい光の中を2台のキャメラで「インスタント」に撮る古典的デクパージュと相容れるわけはなく、ドライヤーにおける外側からの切り返しは視点転換としてなされていることの証左となる。■「吸血鬼」(1931)『分断』⑫=外側からの切り返し①では、手すりを伝って階段を下りて来る医者を下から見上げている青年の真横からのクローズアップが撮られた後、外側から切り返されているが、青年のクローズアップが接近して撮られているため場所的に2台のキャメラで撮ることは不可能であるように撮られている。
★逆からの切り返しがミックスされる時
「裁判長」(1918)では外側からの切り返しは1ショットしか撮られておらずそれも『古典的デクパージュ的人物配置』ではない視点転換として撮られている。しかし次の「サタンの書の数ページ」(1919)の第三話では伯爵令嬢が鉄格子越しにサタンへ手紙を渡す時、ドライヤー作品初めての『古典的デクパージュ的人物配置』が撮られている(外側からの切り返し第三話②)。それは確かに外側から切り返されてはいるものの逆から切り返されている。まず鉄格子の手前にサタンの後ろ姿、鉄格子の向こうに伯爵令嬢が『古典的デクパージュ的人物配置』によって撮られているが次にキャメラを2人の逆側へ持って行き、手前に伯爵令嬢、鉄格子の向こう側にサタンを撮った『古典的デクパージュ的人物配置』へと外側から切り返されている。『古典的デクパージュ的人物配置』から『古典的デクパージュ的人物配置』へと外側から切り返されているが逆から切り返されているので『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』ではない、といういかにもドライヤーらしい事態がこの最初のケースにおいて惹き起こされている。この場合、キャメラの位置からして1台のキャメラで撮られており、周囲は暗く設定され、わざわざ人物たちの逆側へキャメラを移動させて撮っているのであり、古典的デクパージュ的「インスタント」の傾向とは無関係の方法としてある。■「不運な人々(DIE GEZEICHNETEN)」(1921)では外側からの切り返し⑧で『まもなくユダヤ人が全ロシアを手に入れるという法律ができる』とスパイが洞窟の入り口で鍋を炊いていた商人の息子を誘惑するとき、商人の息子の後ろから2人を捉えた『古典的デクパージュ的人物配置』に近い配置が撮られそこから2回続けて外側から切り返されているがここでもまた2回とも逆から切り返されている。キャメラの位置からして1台のキャメラで撮られており、またこの場所は薄暗い洞窟を背景として撮られていることからおよそ強い照明で2人一緒に光を当てる古典的デクパージュ的照明の在り方とは異質な撮り方がされている。
★「吸血鬼ノスフェラトゥ(NOSFERATU: EINE SYMPHONIE DES GRAUENS)」(1921)
ムルナウのこの作品では不動産屋のフッターが吸血鬼の城でパンを切っている時に間違って自分の指を切ってしまいその血を見て迫って来る吸血鬼からフッターが後ずさりするシーンが撮られている。そこへ吸血鬼がやって来て2人は吸血鬼を後ろ姿とした『古典的デクパージュ的人物配置』に収まるのだが、その直後、フッターの外側から切り返されているが、逆から切り返されている。この外側からの逆からの切り返しは場所的に1台のキャメラで撮られかつ吸血鬼の顔に真っ白な光が当てられて照明が修正されて撮られているが、外側から切り返された瞬間フッターに迫って来る吸血鬼の運動感はただ事ではない。この外側からの切り返しは同じ側から外側から切り返されるよりも、逆から切り返される方が切り返された人物をより正面から撮ることができるということだろうか。人物配置、角度、人の動く方向、どちらの人物が主か等もかかわって来そうなので微妙だが、外側からの切り返しは後に検討する「吸血鬼」(1931)『分断』26のように撮り方によってはホラー映画の恐怖を露呈させる方法なのかもしれない。
★続かない外側からの切り返し
『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』とは「インスタント」に映画を撮る方法であるから外側からの切り返しを続けることに意味がある。だがドライヤー映画では伯爵令嬢が鉄格子越しにサタンに手紙を渡す「サタンの書の数ページ」第三話外側からの切り返し②のように『古典的デクパージュ的人物配置』が撮られたあと外側から切り返されない。「むかしむかし」(1922)外側からの切り返し②では、陶工の小屋で王女に『私は王女よ、跪(ひざまず)きなさい!』と言われた王子が王女の腕をつかんだ瞬間、『古典的デクパージュ的人物配置』へと転換されるがそのあと王女へは外側からではなく内側から切り返され、しかもそれは逆から切り返されていて、そこで撮られた王女のクローズアップは照明が修正され大きくずれている。その次に外側から切り返されて(これも逆から切り返されている)再び『古典的デクパージュ的人物配置』が成立しているがそこからさらに外側から切り返されてはいない。周囲は薄暗く、照明の修正がなされ、1台のキャメラで撮られている。「ミカエル」(1924)『分断』29、外側からの切り返し⑤では、キスをしている2人の構図は典型的な『古典的デクパージュ的人物配置』であり、ハリウッド映画ならまず間違いなくそのまま外側から切り返されるであろうところが、その後、切り返されていない。「不運な人々」(1921)外側からの切り返し⑪で商人の息子が人をかき分けて入って来たあと3ショット続けて外側から切り返されていて、その内1ショット目と3ショット目が『古典的デクパージュ的人物配置』とも言うべきショットだが、2ショット目は男の右肩しか映っておらず、『古典的デクパージュ的人物配置』から『古典的デクパージュ的人物配置』へ外側から切り返されるという『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』としては撮られていない。「あるじ」(1925)外側からの切り返し⑤では、ソファーに座っている妻にその母親が家を出た方がいいと勧めるが妻が夫の弁護をするシーンで、手前に妻、奥にその母親を捉えた『古典的デクパージュ的人物配置』が3回撮られているが3回ともその後キャメラが正面へ引かれて『古典的デクパージュ的人物配置』から外側から切り返されるショットが撮られていない。むしろその『古典的デクパージュ的人物配置』では母親の照明が修正されていて「インスタント」とは程遠い撮られ方をしている。外側からの切り返し⑦では、乳母が父親の耳を掴んで『壁に向かって立っていなさい』という時『古典的デクパージュ的人物配置』に近い配置でありながら次は父親へ内側から切り返されている。その後、外側からの切り返し⑧(『分断』57)では、帰って来た妻と夫が抱き合うシーンでまず妻の後方の外側から切り返されここで『古典的デクパージュ的人物配置』に近い配置となり、さらにもう一度夫の後ろから外側から切り返されているが、真後ろから切り返されていて2ショット続けて撮られた外側からの切り返しだが。これは『分断』57に書かれているようにルビッチが前年「結婚哲学」(1924)で撮った男の首に回された女の手だけを撮りたいがための真後ろからの切り返しであり『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』とは関係がない。「グロムダールの花嫁」(1925)外側からの切り返し①では、自分の結婚を父親に勝手に決められて家から飛び出してきた娘が小作人の息子と向き合った時、最初に娘の後方からの『古典的デクパージュ的人物配置』が撮られたあと、娘のクローズアップ→娘の後方から外側からの切り返し→娘のクローズアップ→娘の後方からの外側からの切り返し→娘のクローズアップ→娘の後方からの外側からの切り返し、と、3ショット、小作人の息子の後方から外側から切り返されているが、小作人の息子の後方からは一度も切り返されてはおらず外側からの切り返しは連続して撮られていない。またほぼ正面から撮られた娘のクローズアップは小作人の息子をどけて■、かつ照明を修正して撮られていることから「インスタント」とは程遠い撮られ方をしている。さらに外側からの切り返し②(『分断』⑪から続く)では小作人の息子が恋敵と牧草地で決闘する時に恋敵を正面から捉えたフルショット→外側からの切り返し→恋敵を正面から捉えたフルショット→外側からの切り返し→恋敵を正面から捉えたフルショット→外側からの切り返しと、3ショット、外側からの切り返しが撮られているが外側からの切り返しは連続して撮られてはいない。正面から撮られた恋敵のあと、斜め後方のロングショットで外側から切り返されたショットは『古典的デクパージュ的人物配置』とはまったく異質の視点転換であり、場所的にキャメラは1台しかあり得ず、ここは内側からの切り返しではないものの正面→外側からの切り返しというセットで別々に撮られて『分断』している。「怒りの日」(1943)外側からの切り返し①では序盤、屋根裏部屋の鍵を牧師の妻が牧師の母親に渡す時、2人のあいだは『古典的デクパージュ的人物配置』に近い配置で撮られているが、そこから内側からの切り返し→外側からの切り返し→内側からの切り返しと続き外側からの切り返しが連続することはない。外側からの切り返し③では、母親が牧師に『アンネの目を見たかい』と尋ねるとき手前に牧師の頭半分だけの後ろ姿、奥に母親を捉えた『奇妙な同一画面』に近い配置へ置かれたあと(『古典的デクパージュ的人物配置』ではない)、牧師への内側からの切り返し→母親への外側からの切り返しが交互に12ショット連続して撮られていて外側からの切り返しが連続することはない。かつすべての切り返しが逆側からなされている。さらに『分断』28では、雷雨の中帰宅した牧師に妻がビールを出した後の2人のあいだは、最初のショットで同一画面に収められた後、 16、20、22、32、34ショット目で外側から切り返されて同一画面に収められていてここでもまた外側からの切り返しは続くことなく内側からの切り返しを挟んで1ショット置きに撮られている。
★『奇妙な同一画面』との融合。
ブレッソン「ジャンヌダルク裁」(1962)で検討したように外側からの切り返しは手前の人物の後ろ姿から撮るため多くの場合その人物を「その人」と特定できずその結果として『奇妙な同一画面』となることが多く見られているが、仮に古典的デクパージュの場合、物語をよく語るための方法であることから外側からの切り返しにおいても手前の人物を可能な限り「その人」と特定できる撮り方をし、特にその要請はスターシステムの中では強くなり外側から切り返された画面も『正常な同一画面』に近くなり仮に「その人」と特定できない場合でも「殊更奇妙な」ショットになることは基本的にない。これから検討する『奇妙な同一画面』は外側からの切り返しによって「殊更奇妙に」撮られた縦の構図であり、『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』とは異質のものである(今回の論文では『奇妙な同一画面』はいかにも奇妙なものに限定し『普通の外側からの切り返し』による人物の不特定は除外して検討している)。ドライヤー作品で外側からの切り返しが『奇妙な同一画面』と融合されて撮られたのは「不運な人々」(1921)の外側からの切り返し②が初めてであり、そこでは学友の中傷で学校を退学になったハンネ=リーベを母親が慰めるシーンが撮られているが、ハンネ=リーベの外側から切り返された(真後ろから切り返されているのでキャメラは1台)ショットでは母親とハンネ=リーベの『頭のてっぺんだけ』が同一画面に収められている。「ミカエル」(1924)ではミカエルが侯爵夫人と見つめ合うことが侯爵夫人の目を描く上での大きな主題であるが『分断』⑳で2人が「見つめ合う」以前の『分断』は、画家にしてもミカエルにしても『侯爵夫人と見つめ合うことができない』という細部が綿密に撮られ続けている。その一つが『分断』⑪であり、ここで侯爵夫人はミカエルのキャメラを正面から見据える目を見た時、我に帰ったように目を逸らしている。既に検討したように『分断』⑳においてミカエルと侯爵夫人が初めて視線を交えて『見つめ合った』のは『画家とモデル』ではなく『男と女』として(心の中で)であり、お互いがキャメラを正面から見据えることによって交わる(心の)視線によって初めて2人は見つめ合っている。ところが『分断』⑪でミカエルはキャメラを正面から見据えているが侯爵夫人はそこから逃げて目を逸らしている。そして次に侯爵夫人の真後ろからの外側からの切り返しが撮られるが、ここで侯爵夫人は真っ白な羽帽子の後頭部のみが手前に撮られ奥のミカエルはその羽帽子のひらひら越しに侯爵夫人目を見つめているように見える。およそ『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』とは相いれないこの外側からの切り返しは、それによって見つめるミカエルの視線のみをキャメラに捉える『奇妙な同一画面』を成立させることによって侯爵夫人の視線を想像させるに留めるというエロティシズムをフィルムに焼き付けている。「吸血鬼」(1931)の『分断』26=外側からの切り返し②では、『■吸血鬼に血を吸われて失神し運ばれて来て椅子に座らされた姉と彼女を介抱する妹とのあいだが最初に『正常な同一画面』に収められたあと、椅子の上の姉のクローズアップと、椅子の外側から切り返されて手前に椅子に座っている姉のひじ掛けに置かれた「左腕たけ」と奥で膝をついて姉を見上げている妹との『奇妙な同一画面』が撮られている。そこから画面は何度も姉のクローズアップ→その姉を見ている妹の『奇妙な同一画面』へと外側から切り返されるのだが、クローズアップで撮られた姉の様子が次第におかしくなると、外側から切り返された『奇妙な同一画面』において姉の姿を正面から見ている妹の表情が恐怖へと変化していき、再び姉のクローズアップから外側から切り返された妹は少しずつ後ずさりし、成瀬目線でその妹を追いかける姉のクローズアップへと内側から切り返されると、ここでキャメラを正面から見据えている恐怖におののく妹のバスト・ショットへと内側から切り返されている。外側からの切り返しによって2人を同一画面に収めておきながら、それを高い背もたれよって全身を隠されている『奇妙な同一画面』とすることによって存在するはずの椅子の向こうの姉を「腕」以外はすべて背もたれによって覆い隠しそれによって手前の不気味な椅子に隠された姉をただ一人正面から見ている妹の表情の変化のみによって恐怖を露呈させるという稀有な合わせ技がここに撮られている。「ミカエル」の『分断』⑪と同様にここでは外側から切り返されることによって出現する同一画面を『奇妙な同一画面』とすることで、同一画面に収められていながら隠されてしまう瞳を奥の人物の瞳によって想像させるという、外側からの切り返しでなければ決して撮ることのできない『ショット=瞬間の真実』が撮られている。
■「市民ケーン(CITIZEN KANE)」(1941)~オーソン・ウェルズ
『オーソン・ウェルズ内側からの切り返し表』を提示する。ここで「市民ケーン」の一番右側の表を見ると『外側からの切り返し』のところには殆ど『奇妙な同一画面』と書かれている。
★『分断』④(外側からの切り返し②)
オーソン・ウェルズが歯痛のドロシー・カミンゴアと初めて出会って彼女の家に行ったあとに、鏡の中のカミンゴアとウェルズとが切り返されている。これは見たことのない奇妙な切り返しだが、まず鏡の中のドロシー・カミンゴアが撮られてから、次にキャメラは隣の部屋へ移動しカミンゴアと向き合っているウェルズへ内側から切り返されている。するとまた元の隣の部屋へとキャメラは戻り鏡の中のカミンゴアへと切り返されている(中抜きかも知れない)。だがカミンゴアだけでなくウェルズの「右半身だけ」が手前に映っているのでこれは『奇妙な同一画面』となる。とすると、内側からの切り返しで『奇妙な同一画面』が撮られることはないのだからこれは外側からの切り返しということになる。だがキャメラはカミンゴアの真向かいに立っているウェルズの後方から切り返されたのではなく隣の部屋の鏡を撮っているだけであるからこれはそもそも『切り返し』ではない。、、とすると、、というようなことをここでウェルズはやっている。こういうことをやる人が映画の「真実」なるものを信じているわけがない。
★外側からの切り返し①
少し時間を戻して、ウェルズが新聞社を買収してからフィアンセ(ルース・ウォリック)を乗せた車で新婚旅行に出発するところを2階の窓から顔を出した3人(ジョセフ・コットン、エヴェレット・スローン、社会部の女記者タウンゼント)が見ているシーンが撮られているが、ここで3人からはすべて外側から切り返されている。特に右手前の社会部の女性(この女優さんの名前が分からない)に殊更ピントが合わされ下のウェルズとのパンフォーカスが撮られている。『分断の映画史・第二部』において『ルビッチが窓の内と外を切り返す時、『内側からの切り返し表』に提示したほぼすべての作品についてのショットが内側から切り返されそのまま終わっている』ことを検討したが、通常こうした『窓空間』は内側から切り返されそのまま終わるものであり、それを外側から切り返すウェルズの傾向はパンフォーカスを撮ることと関係している。
★外側からの切り返し④
ライバル候補(ジェームズ・W・ゲディス)に不倫をネタにゆすられるシーンで部屋の奥に立っているウェルズから3ショット外側から切り返されて手前のウェルズと奥の3人(妻と愛人、政敵)との縦の構図が撮られているが最初の外側からの切り返しは手前のウェルズに殊更ピントを合わせたパンフォーカスとして撮られており、あとの2つは『奇妙な同一画面』となる。ここで政敵が一度部屋の奥に行ったのはそこへウェルズを導いてから戻って来て奥のウェルズの外側から切り返してパンフォーカスを撮るためである。ここでも外側からの切り返しはパンフォーカス、『奇妙な同一画面』と連動している。
★外側からの切り返し⑤
ウェルズが選挙で負けた後、床に紙テープの散らばった新聞社で酔ったジョセフ・コットンと出くわしたウェルズはコットンの横を通り過ぎてから立ち止まり振り向いてからまた彼と話している。ここでウェルズの外側から切り返されると(逆から切り返されている)手前にウェルズの「右足のズボンの影だけ」と奥のコットンとが同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、そのままウェルズが光の当たっている場所へ一歩踏み出すと彼のズボンの縞模様が露わになり奥のコットンと「手前のズボンだけ」とのパンフォーカスになる(『奇妙な同一画面』は持続)。そこから2人は近づいて話をするが再びウェルズはコットンから遠ざかり振り向く。するとウェルズの外側から切り返され(逆から切り返されている)、手前のズボンと左腕にかけている上着の縞模様が奥のコットンと『奇妙な同一画面』のパンフォーカスとなる。ウェルズが二度、わざわざコットンから離れてから振り向くのは外側から切り返して『奇妙な同一画面』とパンフォーカスを撮るためである。
★『分断』⑦(外側からの切り返し⑥)
泥酔してタイプライターに顔を埋めているジョセフ・コットンと彼の前に立っているウェルズとのあいだは、6ショットコットンの外側から切り返されているがすべてウェルズと手前のコットンの「背中だけ」が同一画面に収められた『奇妙な同一画面』として撮られている。ここでも外側からの切り返しが『奇妙な同一画面』と結びついている。
★『分断』⑧(外側からの切り返し⑦)
劇場でのカミンゴアの2度目の舞台シーンで、舞台の上のカミンゴアと二階席のウェルズとのあいだは、最初にウェルズのクローズアップの外側から切り返されて同一画面に収められているがウェルズは「後頭部の影のみ」で「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)、次にウェルズの外側から撮られた(切り返されてはいない)ショットで2人は同一画面に収められているがウェルズは影がかかって「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面)、さらに手前の奇形的なクローズアップで撮られたウェルズの横顔にはピントが合わせられている(パンフォーカス)。そこからさらに6ショット目と8ショット目にウェルズの外側から切り返されて2人は同一画面に収められているがウェルズは影がかかっていて「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』でパンフォーカス)、そこから7ショット内側から切り返されそのまま終わっている。外側からの切り返しは最初のショットでは『奇妙な同一画面』と、あとの2ショットは『奇妙な同一画面』とパンフォーカスと融合している。パンフォーカスは手前にウェルズの後ろ姿の奇形的なクローズアップにピントが合わされ遥か下の舞台の上のカミンゴアにもピントが合わされている。何故ウェルズが『二階席』なのかは検討するまでもない。ここでも外側からの切り返しはすべて『奇妙な同一画面』かパンフォーカスとセットになっている。
★『分断』⑨(外側からの切り返し⑧)
床に座り新聞の批評を見て怒鳴り散らしているカミンゴアと椅子でパイプを吹かしたウェルズとのあいだは、2ショット目にウェルズの外側から切り返されて同一画面に収められているがウェルズは後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』だがこれはさして奇妙ではない)、9ショット目でウェルズの外側から切り返されてカミンゴアとウェルズの「首から下だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、17ショット目にウェルズの外側から切り返されてカミンゴアとウェルズの「鼻から下だけ」が同一画面に収められている(『奇妙な同一画面』)。ここでも外側からの切り返しと『奇妙な同一画面』がすべてリンクしている。
★『分断』⑪(外側からの切り返し⑨)
自殺未遂をしてベッドに横たえているカミンゴアと傍で彼女を見守るウェルズとのあいだは、最初のショットで同一画面に収められているがウェルズは後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』(これは切り返しではない)、1ショット目でカミンゴアの外側から切り返されて同一画面に収められているがカミンゴアが後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、2ショット目でウェルズの外側から切り返されて同一画面に収められているがウェルズは後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、そのまま終わっている。僅か2ショットの一見何の変哲もない外側からの切り返しだが、ここで撮られた『奇妙な同一画面』が偶然そのように撮られたのではなく敢えて手前にぼやけた人物を取り込む外側からの切り返しが選択されている。
★外側からの切り返し⑩
カミンゴアが大広間の暖炉の前に座ってジグゾーパズルをしている時、2ショットカミンゴアの外側から切り返されているが1ショット目は通常の『奇妙な同一画面』、2ショット目はカミンゴアの横顔のクローズアップを手前になめたパンフォーカスによる『奇妙な同一画面』となる。なぜここが『大広間』なのかは検討するまでもないだろう。
★『分断』⑭(外側からの切り返し⑪)
ピクニックのテントの中で言い争いをしているカミンゴアとウェルズとのバンドの演奏を挟んで続けられる2人のいさかいは、4ショットカミンゴアの外側から切り返されて同一画面に収められているがカミンゴアは後ろ姿で「その人」と特定できない(『奇妙な同一画面』)。外側からの切り返しと『奇妙な同一画面』がすべて連鎖している。
★外側からの切り返し⑫
カミンゴアがウェルズの屋敷から出て行くときの戸口でカミンゴアとウェルズのあいだで6ショット外側から切り返されている。この配置がこの作品の中でもっとも『古典的デクパージュ的人物配置』に接近しておりカミンゴアの外側から切り返されたショットは人物の特定のできない『奇妙な同一画面』と言い得るショットだがウェルズの外側から切り返された2ショットは「その人」と特定可能で『奇妙な同一画面』ではない。ここで初めて2ショット、外側からの切り返しと『奇妙な同一画面』+パンフォーカス連合が解消している。その直後、去ってゆくカミンゴアを見ているウェルズのウエスト・ショットの外側から切り返されて手前のウェルズの後ろ姿と去って行くカミンゴアとが縦の構図で同一画面に収められているがウェルズは後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、さらに奥のカミンゴアのロングショットの後ろ姿と手前のウェルズの後ろ姿の顔の部分にピントが合わされたパンフォーカスでとられているが、そのままキャメラが前進するとピントがぼやけてパンフォーカスは解消されている。カミンゴアが去って行くことは運動論的にはその後ウェルズが「起源」を想起する「死」を意味しておりそれに連れ添うように画面の奇形さも解消されている。
★評 「市民ケーン」の外側からの切り返しは『奇妙な同一画面』とパンフォーカスに直結し『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』における親切でわかりやすい物語とはまったく異質の出来事として露呈している。この作品は古典的デクパージュ真っ盛りの1941年に撮られているにもかかわらず外側からの切り返しはすべて映画的に撮られており『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』における「インスタント」の微塵も現わしていない。ウェルズにとって外側からの切り返しとはパンフォーカスと『奇妙な同一画面』における同一性の欺瞞を露呈させるための方法でありチャールズ・フォスター・ケーンの人生を奇形的に歪んだこととして撮るための選択にほかならない。それが後々「オーソン・ウェルズのフェイク(F FOR FAKE)」(1973)となって現れて来る。
★パンフォーカスの見分け方
パンフォーカスにも色々あり被写界深度の深い画面をパンフォーカスということもあればもっと狭く、「市民ケーン」のように手前に奇形的なクローズアップを舐めたタイの構図をパンフォーカスとすることもある。前者はD・W・グリフィス「イントレランス(INTOLERANCE)」(1916)における古代篇バビロン篇の勝利の祝宴において手前の階段で踊っている女たちのみならず100メートルくらい先で勝利を祝っている者たち(エキストラ)にもピントが合わされているようなショットであり、もともとサイレント短編は被写界深度が深く、前者の意味におけるパンフォーカスは多く撮られている。だが映画においてパンフォーカスとは基本的には後者であり、ウェルズの奇形的なパンフォーカスの数々のように手前に舐められた人物なり事物にピントが無理矢理合わされて撮られた奇形的クローズアップと奥とのピントを合わせる実験的(ひけらかし)の方法を指しており、深度が深いだけのショットは被写界深度が深いとは言われてもパンフォーカスとは言われないことが多い。ドライヤー「ミカエル」(1924)では序盤、アーデルスキョルド夫妻が帰り代わりに侯爵夫人が二度目の来訪をする時、大広間のロングショットが撮られているが画面左手前の彫像に無理矢理ピントが合わされ奥の大広間の人々との両方にピントが合わされた奇形的なパンフォーカスが撮られている。ムルナウ「サンライズ(SUNRISE)」(1927)では映画が始まってすぐの海水浴の海岸で手前の水着の女と遠くの海水浴客たちとのあいだにピントが合わされていてウェルズのほどではないにしても奇形性はしたためられている。ジョン・フォードはグレッグ・トーランドがキャメラを担当した「果てなき船路(THE LONG VOYAGE HOME)」(1940)のオープニングで手前の木に寄りかかっている女と奥の船とのパンフォーカスが有名だがこれは手前の女に無理矢理ピントを合わせた奇形的パンフォーカスとして撮られている。さらにジョン・フォードは遡り「鄙より都会へ(BUCKING BROADWAY)」(1917)では46分過ぎ、カフェの手前のテーブルで酒を飲んでいる男(ヴェスター・ペグ)のクローズアップと奥のテーブルで彼を見ている詐欺師の男女とのあいだがパンフォーカスで撮られているが手前の男のクローズアップに殊更ピントを合わせた奇形的パンフォーカスとして撮られており、フリッツ・ラングもまた「蜘蛛/第一部:黄金の湖(THE SPIDERS Episode One The Golden Sea)」(1919)の25分過ぎ、酒場の窓の外の冒険家(カール・ド・フォークト)と酒場のテーブルの女スパイ(レッセル・オルラ)とのあいだが手前に殊更ピントを合わせた奇形的パンフォーカスによって撮られており、「市民ケーン(1941)のずっと以前に奇形的なパンフォーカスは撮られていることになる。グリフィスは1910年頃から多くの兵士を画面の数十メートル先に配置して具体的な演技をさせながら手前の主人公たちと深い深度で同一画面に撮ることを試みているが、グリフィスの大作への傾倒が深い被写界深度を要請するのかその逆なのかは不明としてもパンフォーカスには『意図する・殊更に』という要素が含まれていることからそれ自体、我々の現実の視界とはかけ離れた方法であり、手前に殊更ピントを合わせて遠近法を破壊するパンフォーカスは必然的に『奇妙な同一画面』となる。ゴダール的に評すれば、語られた瞬間のリアルにはなり得ても語られた内容の「リアル」になることはない。
★「オーソン・ウェルズのフェイク(F FOR FAKE)」(1973)
贋作作家を追う「ドキュメンタリー」とされている作品は監督のオーソン・ウェルズが『ペテンと詐欺と嘘についての映画です』と紹介しているように水着姿で歩く女を家の窓から覗き見するピカソの写真へと何度も切り返され『ピカソが見ている』とする、モジューヒンの実験を地で行くようなモンタージュが数多く撮られており、切り返しは殆どすべて内側から『分断』され、エスタブリッシング・ショットはまったく撮られず、どこにいるのかわからない者同士がひたすら切り返されてゆく画面が1ショット3秒、1時間1100ショットの超高速で進んでゆくまさに『フェイク』であり、ここには長回し=オーソン・ウェルズの片鱗のかけらも残っていない。この『分断』表は映画終盤の8分強に亘るシークエンスにおいて贋作作家の孫と称する女コダールと映画の作者オーソン・ウェルズが何処ともわからない霧のかかった場所でコダールとピカソとのいきさつについて話をするというシーンであり、全100ショットの内『正常な同一画面』は『奇妙な正常な同一画面』を含めて2ショット、外側からの切り返しはすべて『奇妙な同一画面』となり、エスタブリッシング・ショットは撮られていない。クローズアップの顔と顔を編集でばらばらにつなげたようなこの切り返しの数々は、ラストシーンでウェルズ自身が『芸術とは真実のための嘘である』とピカソを引用するように外側からの切り返しは映画のウソから真実を捉える瞬間であり人と人とが同一画面に収められていてもそれ自体は「リアル」すらもたらすものではなく、嘘だらけのパンフォーカスと外側からの切り返しに覆われた「市民ケーン」以来ウェルズはそのような映画の「リアル」を撮ろうとはしていない。
★「ジャンヌダルク裁判(PROCES DE JEANNE D’ARC)」(1962)~ブレッソン
この作品については「外側からの切り返しはすべて『奇妙な同一画面』になっており、外側からの切り返しとは『奇妙な同一画面』を撮るために為されていると断定できる」と第一章で書いたが、1962年においてすら外側からの切り返しを「リアル」を要請するところの古典的デクパージュとは全く異質の領域で撮る貴種がいる。ちなみにドライヤー「裁かるるジャンヌ」(1927)に外側からの切り返しは1ショットしか撮られていない。序盤、審問官がジャンヌの顔に唾を飛ばしながらしゃべる時、3ショット審問官の外側から切り返されている。口だけの外側からの切り返しで、極めて珍しい。
★『古典的デクパージュ的人物配置』とラブシーン
「奇跡」(1954)と「ガートルード」(1964)は切り返し自体が少ないことから外側からの切り返しも少ない。「ガートルード」外側からの切り返し①では、音楽家の家でガートルードが彼とキスする時、最初は左にガートルード、右に音楽家を横からのクローズアップで撮っているキャメラを、キスをする瞬間、逆からの切り返しではなく、逆側へ転換され、そこで手前に音楽家の後ろ姿、奥にガートルードのクローズアップを捉えた典型的な『古典的デクパージュ的人物配置』となっている。「怒りの日」(1943)外側からの切り返し④においてもアンネと牧師の息子が初めてキスをするとき、逆側への転換がなされたあと、そこで『古典的デクパージュ的人物配置』となり次に外側から切り返されている。これは「あるじ」(1925)外側からの切り返し④に次いでドライヤーによって撮られた2つの『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』の内のひとつだが、2人がキスをした瞬間キャメラが逆側へ転換された後、アンネの顔に照明が当たるように2人とも体を少し右向きにずらしている。その瞬間『古典的デクパージュ的人物配置』が成立している。「ガートルード」のキスシーンではキャメラを逆側へ移動させた構図は既に音楽家の後方から撮られたガートルードのクローズアップの顔に照明を当てたあとの構図であり、それがとりもなおさず『古典的デクパージュ的人物配置』となるのだが、クローズアップでキスをしている者の一方の顔を正面から撮ることは不可能なので、正面付近からきれいに撮ろうとすると必然的に『古典的デクパージュ的人物配置』になる。キスに限らず顔と顔を接近させている2人の内の1人(主に女優)をきれいな照明で撮ろうとするとほぼ必然的に『古典的デクパージュ的人物配置』になる。この構図はそこからさらに外側から切り返したくなる魔の構図であり、それを照明を修正せずに明るい光で反復させると『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』となる。キスシーンについて見てゆくと「裁判長」(1918)では最初の回想で裁判長の父親が庭師の娘と小舟の上でキスをするシーンは真上の俯瞰から撮られ、さらにその後、裁判長自身の回想で彼と家庭教師の女が小橋の上でキスをするシーンは水面の影のみによって撮られており、その直後、小路でキスをするときはロングショットで撮られている。「グロムダールの花嫁」(1925)で小作人の息子と地主の娘がキスをするときは野原のロングショットで撮られ「あるじ」(1925)で家に帰って来た妻と夫とのキスシーンはルビッチ的に省略されて撮られている。キスによって『古典的デクパージュ的人物配置』が現れる初めての作品は「ミカエル」(1924)であり、ミカエルと侯爵夫人が初めてキスする時は横からのロングショットで撮られているが、ミカエルの家に侯爵夫人が初めてやって来て2人が2度目のキスをする時、最初はほぼ横並びの『古典的デクパージュ的人物配置』に近い構図で撮られているが、キスをする瞬間、ミカエルの外側から切り返されて『古典的デクパージュ的人物配置』が成立している。これはキスをしている侯爵夫人のクローズアップの顔に優先的に光を当てて撮った結果として成立した配置であり、そこからさらに外側から切り返されることはないのは、「あるじ」(1925)の外側からの切り返し⑤で検討した母親の照明の修正のように、照明を修正するために結果として『古典的デクパージュ的人物配置』が撮られたからであり、明るい画面で「インスタント」に外側からの切り返し続けるために『古典的デクパージュ的人物配置』が撮られているのではない。『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』が連続しないのはドライヤーの映画が『スター映画』でもスタジオシステムで撮られたものでもなく、明るい照明のままバーグマン、次はケーリー・グラントのクローズアップを、というシステム上の強制がなかったこともあるかも知れないが「怒りの日」(1943)「ガートルード」(1964)で撮られた『古典的デクパージュ的人物配置』はキスをする時の女優の顔を、照明を修正して可能な限り正面から撮るための結果としてもたらされた構図であり『スターシステムの不在』という消極的な理由によるものではない。それを見分けるためにも照明は重要な細部のひとつとなる。
★『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』
ドライヤー作品の中で『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』が撮られたと評価しうるのは■「あるじ」(1925)外側からの切り返し④、夫にりんごを勧めた妻が文句を言われたあと「あんたのお母さんを呼んでくる!」と乳母が妻に言う時『古典的デクパージュ的人物配置』に近い配置から字幕を挟んで1ショット外側から切り返されているのと、「怒りの日」(1943)外側からの切り返し④の2箇所しかない。『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』が一般的に撮られる20年代後半以降についても逆から切り返したり照明を修正したりあるいは外側からの切り返しを連続して撮らないことなどによってドライヤーは「ガートルード」(1964)に至るまで『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』からは異質の次元に立っている。
★ここまで見て来て、赤で書かれたAからFまでの古典的デクパージュの要素とドライヤーを比較してみる。
A物語を過不足なく語るために人物が一人しか画面の中に映らない内側からの切り返しよりも2人同時に映る外側からの切り返しが多くなる。→内側からの切り返しが圧倒的に多く外側からの切り返しは視点転換でなされている。逆から切り返すという傾向もまた加筆すべき。
B一度に多くを撮るためにキャメラは一台ではなく二台となる。→内側からの切り返しが『分断』され外側からの切り返しにおいても真後ろからの切り返しなどが基本で『古典的デクパージュ的人物配置』が極めて少ない。
C切り返しによる照明は人物を照らすものではなく場を照らすものとなり明るくなる。装置、美術もまた人物でなく場によって固定されている。→照明の修正によって人物を「そのひと」として照らしている。
Dスタジオには常にAとBの2人が揃いAはBに対して言葉を発しBはAに対して言葉を発する。AはBを見ながら、BはAを見ながら言葉を発しているのだからキャメラを正面から見据えることはなく、結果としてイマジナリーラインは合わされることになる。→正面付近からの内側からの切り返しが基本であり、キャメラを正面から見据える傾向、窮屈な場所から切り返す傾向など、多くは人物の前に相手が存在していない撮り方をしている。
E内側から切り返される場合、AとBとは現場で向き合っているのだからそのあいだにキャメラを置くことはできず、キャメラは三角形の支点に置かれ切り返しは正面からではなく斜めからなされることになる。→AとBのあいだにキャメラが置かれることが基本。
F古典的デクパージュにおいてはエスタブリッシング・ショット(『正常な同一画面』)が随所に挿入される。エスタブリッシング・ショットは空間的な状況を観客に把握させ物読むことを促進させる。→エスタブリッシング・ショットの不在が基本。
★ドライヤーは古典的デクパージュとは異質の撮り方をしている。『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』とは内側からの切り返しの延長線上にある出来事であり、内側からの切り返しが成熟していない段階での外側からの切り返しは基本的に古典的デクパージュではなく視点転換となる。外側からの切り返しが世界の映画に席巻し始めるのは1920年代の後半であり、時期を同じくして「ミカエル」(1924)でキスシーンにおける『古典的デクパージュ的人物配置』が撮られ、その後「怒りの日」(1943)、そして遺作となった「ガートルード」(1964)でも人と人とが接近することにおける照明の修正から『古典的デクパージュ的人物配置』が撮られているがそこからさらに外側から切り返されたのは「あるじ」(1925)と「怒りの日」の2回だけでありドライヤーにとってこうした通俗性は基本的に遠いところにある。
■長回しについて
長回しが多く撮られている「奇跡」(1954)では、序盤、三男アナスが帰宅すると台所の右のテーブルでは身重の嫁インガがパン生地をこねていて、左のテーブルの上には長男ミケルが座っている。この2人のあいだを三男は自分の結婚の相談をするために行ったり来たりするシーンが長回しで撮られている。右の嫁と話している時は長男は画面の左外であり、そのまま長回しで三男が長男の所へ歩いて行くと今度は嫁が画面の右外へ消え長男と二人の画面となる。ここからさらに三男は嫁→長男→嫁の所へ歩いて行きここで長男が画面に入って来て三人は初めて『正常な同一画面』に収まることになる。ここで三男が左右へ歩いていくとそれまで画面にはいなかったがずっとそこで待機していた人物が画面の中に入って来る。これは「リアル」だろうか。『分断の映画史・第三部』の「リオ・ブラボー」で検討したように、内側からの切り返しの場合、2人が現実に向き合っていることが証拠立てられる(「リアル」)のは、内側から切り返された相手が持続するそのショットの中でそのまま向かい合っている相手に接近して同一画面に収められる場合であり、この「奇跡」(1954)においても三男が左右へ歩いていくとそれまで画面にはいなかった人物がそこに存在するのはまさにそこに人が存在するというこの「リアル」と同じであり、それは外側からの切り返しにおいて現実にそこに2人が存在するという「リアル」と変わることはない。ドライヤーがこれを「リアル」を期待して撮っていると評しているのではなくこうした長回しによくある「我々の現実と同じ」という出来事は「リアル」ではあってもそれだけではリアルにはなることはない。
★外側からの切り返し~「リアル」とリアル
「リアル」は内容の真実でありリアルは瞬間の真実である。リアルは設定には無関係なので上の「待機」問題にしても個別に検討されるべき出来事に過ぎないが「リアル」は多分に設定、方法という依拠して議論される言葉であり、長回し、パンフォーカス、美術、装置、原作、歴史、という特定の設定に関して「外部」との整合性において使われる。我々の時間は持続している、だから長回しは現実的、、パンフォーカスは我々の視界に似ている、、というように。だがアートは視点で切り取った瞬間に我々の現実世界からは異次元の世界へ導かれるのであり、パンフォーカスにしてもあのようないびつな視界は我々の世界には決して訪れることはなく、長回しにしてもそれぞれの瞬間にそれがリアルなのかが検討されるべきであり、それを怠るとただ長いだけの「努力賞」が賞賛される世界が現れてくる。『24時間長回し』も既に誰かが撮っているだろう。