映画研究塾トップページへ
カール・ドライヤー年代記
★はカール・ドライヤー(Carl Theodor Dreyer)。
1889年2月3日コペンハーゲン(デンマーク)生まれ。スウェーデンの貧しい農民の娘とデンマークの裕福な地主の息子との婚外子として生まれる。貧困で子供を育てられない母親は息子をドライヤー家の養子に出す。ジャーナリスト、映画批評などをしたあと、1912年からノーディスク社で不定期で映画脚本を書き始め13年にノーディスク社と脚本家として正式に契約する。また映画の中間字幕を書いてもいた。
題名・原題・製作国・撮影場所 | 製作会社(場所) | 原作 | 脚本 | 撮影 | 美術 | 音楽 | 編集 | 時代背景、その他 | |
1918 | 裁判長 Prasidenten デンマーク 撮影は1918年5月から7月までの2か月半。当時の映画としては長い。 室内場面はコペンハーゲン近郊のノーディスク社のスタジオで、野外の廃墟の場面はスウェーデンのゴットランドで撮られる。それにより製作費も通常の作品以上にかかる。 8月半ば最終編集終了。 封切 スウェーデン 1919年2月 デンマーク 1920年2月と遅れている。 |
ノーディスク・フィルムス・コンパニー (デンマーク・コペンハーゲン) |
ユダヤ系オーストリアの作家・雑誌編集者カール=エーミール・フランツォスの1883年に刊行された小説 | ★ | ハンス・ウォーゲ | ★ | ★ | ノーディスク社でサイレント映画の字幕。編集。脚本を書いていたドライヤーの監督第一作。ノーディスク社はメロドラマが人気の会社。 裁判長の父親役のエリート・ピオは「サタンの書の数ページ」(1919)の第三話で伯爵夫人たちを裏切る召使役を演じている。同一人物には見えないほど役作りをしている。 |
|
1919 | サタンの書の数ページ Blade af Satans Bog デンマーク 撮影は1919年夏に行われ19年冬、もしくは20年の始めに完成。 封切 ノルウェー 20年11月と遅れる。 コペンハーゲン 21年1月24日 |
ノーディスク・フィルムス・コンパニー (デンマーク・コペンハーゲン) |
マリー・コレッリ(ノンクレジット・ノーディスク社がコレッリのベストセラー小説「サタンの嘆き」(1895)の版権を獲得しコレッリの知名度を利用して宣伝したが映画の内容は原作とはまったく異なるとされている。 | ★エドガーズ・ホイヤー(デンマークの劇作家で弁護士)。1913年のイタリアのルイジ・マッジ(Luigi Maggi)「失楽園のサタン」をベースに1913年に脚本が書かれたがノーディスク社に却下される(ドライヤーは当時この脚本を読んでいる)。「イントレランス」(1918)を見たドライヤーがこの脚本を思い出しノーディスク社とホイヤーと掛け合い手直しして映画化する。第四話フィンランド篇はホイヤーの脚本にはなく書き加えられたもの。 | ゲオー・スネフォート。1915年ノーディスク社で監督およびキャメラマンとして雇われ当時のドライヤーとも仕事をしている。 ドライヤー作品では「牧師の未亡人」(1920)、「むかしむかし」(1922)、「あるじ」(1925)で撮影を担当している。 |
★、イェンス・G・リン、アクセル・ブルーン(装置は自分の手では作らなかった。ノーディスクの装置部門の主任と議論しただけ、とドライヤー)。 | ★ | 配給フォトラマ ドライヤーは18年夏、D・W・グリフィス「イントレランス(INTOLERANCE)」(1916)を見て現代篇に関心を持つ。細部にこだわり製作費の増額を次々と要求するドライヤーはノーディスク社と対立するが要求は通らず多くのシーンが省略される。脚本のエドガーズ・ホイヤーからは脚本を改ざんしたと抗議される(特にアントワネットの裁判シーンが予算の関係で撮られなかったことに憤慨)。第四話は反動的として左翼から攻撃される。第二話で学僧を演じたヨハンネス・マイヤーはその後も「不運な人々(DIE GEZEICHNETEN)」(1921)のスパイ役「あるじ(Du skal ære din hustru)」(1925)では憎まれ役の夫を演じている。 |
|
1920 | 牧師の未亡人Prästänkan スウェーデン 10.4公開 撮影場所 ノルウェーのリレハンメルにある中世およびルネサンス期の建造物を保存した野外博物館マイハウゲン 封切 スウェーデン 10月4日 デンマーク 1921年4月26日 |
スヴェンスク・フィルムインドゥストリ (スウェーデン・ストックホルム) |
ノルウェーの牧師で作家のクリストファー・ヤンセンの短編小説 | ★ | ゲオー・スネーフォート | ★ | デンマークからスウェーデンへ→ノーディスク社との上述のトラブルとデンマーク経済の衰退、対してスウェーデン映画は力を強めていた。スヴェンスク・フィルムインドゥストリ社はデンマーク郊外の映画スタジオを買収しデンマークの監督ベンヤミン・クリステンセンに「魔女(HAXAN)」(1922・スウェーデン)の製作資金を与えて撮らせている。この撮影所でドライヤーは「むかしむかし(DER VAR ENGANG)」(1922)を撮る。未亡人役のスウェーデンの女優ヒルドゥア・カールベルイは撮影中既に不治の病でありながら心配するドライヤーに「安心おしよ、この映画が完成するまで死にやしないから」と言い残し1920年10月4日のスウェーデン公開を待つことなく8月27日に亡くなっている。 | ||
題名・原題・製作国・撮影場所 | 製作会社(場所) | 原作 | 脚本 | 撮影 | 美術 | 音楽 | 編集 | 時代背景、その他 | |
1921 | 不運な人々 DIE GEZEICHNETEN ドイツ 撮影場所 ドイツのラングヴィッツの郊外に南ロシアのゲットーを再現して撮られる。 封切 デンマークコペンハーゲンのパラス劇場(次作「むかしむかし」の製作者ソフス・マッセンの所有する劇場) 22年2月7日 ベルリン22.2.23 日本未封切 |
プリムスフィルム (ベルリン) |
デンマークのオーエ・マーゼルングの1912年出版の長編小説「互いに愛せよ」。デンマークで出版されて大きな話題となりドイツ語にも翻訳されていた。 | フリードリヒ・ヴァイマン | フリードリヒ・ヴァイマン(ドイツでルプ・ピックの室内劇「破片・(1927年5月27日ベルリンで封切り)」を撮影したばかり。 | イェンス・G・リン | ★ | ヒットせず。大戦後活況を呈していたドイツ映画のベルリンの小さな映画会社プリムスフィルムにドライヤーが企画を持ち込みドイツでの初めての仕事となる。ドライヤーは21年6月までにベルリンに移り住む。ベルリンのゲットーで現実に生活していたユダヤ人たちをエキストラに使う。主人公ハンネ=リーベを演じたポリーナ・ピエコフスカはロシア革命でベルリンに逃れてきた伯爵令嬢であり生活のために映画に出演した素人俳優。主人公の兄役の弁護士ウラジーミル・ガイダロフはムルナウ「燃ゆる大地(Der brennende Acker)」(1922)に農夫の弟役で出演している | |
1922 | むかしむかし DER VAR ENGANG デンマーク 撮影場所・コペンハーゲン北部に位置するヘレルプの撮影所でかつてベンヤミン・クリステンセンが所有し当時スウェーデンのスヴェンスク・フィルムインドゥストリ社(「牧師の未亡人」参照)が所有している。だがこのスタジオは製作者のソフス・マッセンが資金を出し渋ったため1か月しか使えずまた王立劇場に所属する俳優たちは演劇シーズンの始まる9月からは出演できくなるため撮影は5月から8月まで急ピッチで進められた(王立劇場の役者以外で9月まで野外場面を撮っているらしい)。 封切 デンマークコペンハーゲンパラス劇場10月3日 日本未封切 |
ソフス・マッセン (デンマーク・コペンハーゲン) |
デンマークの詩人・劇作家ホルガー・ドラックマン1884年に書いた戯曲「むかしむかし」(初演は1887年) | ★ | ゲオー・スネーフォート | イェンス・G・リン | ★ | デンマークのノーディスク社との関係が悪化していたところに同じデンマークのパレス劇場(「不運な人々」(1921)の封切劇場)の所有者ソフス・マッセン(スウェーデン映画の輸入業者でもあった)と出会い衰退したデンマーク映画でスウェーデン映画のようなの国民映画を撮ることで一致。デンマークで大ヒット・4週間の続映。王女役は「サタンの書の数ページ(Blade af Satans Bog)」第四話で電信技士の妻を演じたクララ・ポントピダン。まったく違う感じの人物を演じている。 | |
1924 | ミカエル Michael ドイツ 封切 ドイツ 9月26日(ベルリン) デンマーク 11月17日 アメリカ 1926年12月14日 |
デクラ・ビオスコープ(エーリッヒ・ポマーが製作主任)=ウーファ (ベルリン) |
デンマークの作家ヘアマン・バングの小説。同性愛者である作家の生活が部分的に反映されている。デンマークよりもドイツで話題となる。モーリッツ・スティルレル(Mauritz Stiller)は「Vingarne(翼)」(1916) で映画化しているが上映は3日で打ち切られドライヤーは見ていないとされている。 | ★ | カール・フロイント。ルドルフ・マテ。カール・フロイントは別の仕事が入り終盤からこの作品が長編デビューとなるルドルフ・マテに交代。カール・フロイントは画商役で出演している。 | フーゴ・ヘリング(建築家で初の装置担当。ドライヤーも協力) | ★ | 23年秋、ドライヤーはベルリンへ渡る。室内劇。エーリッヒ・ポマーはドライヤーに製作上の全面的自由を与える。 画家役のデンマークの映画監督ベンヤミン・クリステンセン(Benjamin Christensen)は当時ドライヤーと同じくデンマークでは映画が撮れずドイツで撮っていた。ミカエル役のヴァルター・シュレザークは当時新人俳優であった。1930年アメリカへ渡りニューヨークで舞台俳優としてデビューし42年にハリウッドへ拠点を移しヒッチコック「救命艇(LIFEBOAT)」(1943)などに出演している。侯爵夫人役のオーストリアの舞台、映画女優ノラ・グレゴールは当時駆け出しの女優でドイツ映画初出演。その後フランスでジャン・ルノワール「ゲームの規則(LA RÈGLE DU JEU)」(1939)の伯爵夫人役で出演する。 |
|
題名・原題・製作国・撮影場所 | 製作会社(場所) | 原作 | 脚本 | 撮影 | 美術 | 音楽 | 編集 | ||
1925 | あるじ Du skal ære din hustru (原題・あなたは妻を敬わなければなりません)デンマーク 封切 デンマーク 10月5日 フランス 1926年3月26日 日本1926.12東京武蔵野館(日本で初めてドライヤー映画が封切られる) |
パレージウム (デンマーク・コペンハーゲン) |
スヴェン・リンドムの戯曲「暴君の失墜」。ドライヤーは1919年のこの芝居の初演を見ている。 | ★ | ゲオー・スネーフォート | ★ | ★ | ドライヤーの名前が国際的に認められることとなる作品。パリで大ヒット。 ドライヤーは二間続きの本物の小さいアパートで撮影しようとしたが技術的に不可能と分かり撮影所の敷地内にアパートのセットを作らせ水道、電気を引かせストーブにも本当の火がつけられて撮られる。 乳母役のマティルデ・ニールセンは「牧師の未亡人」(1920)以来の出演。 |
|
1925 | グロムダールの花嫁Glomdalsbruden ノルウェー 撮影場所 ロケーション→ヤーコブ・ブレーダー・ブルの住むオスロ北方のオスターダール。 室内場面→オスロ南方の17世紀にデンマーク王によって作られた城砦の内部で撮影。 封切 オスロ(ノルウェー) 1926年1月1日 コペンハーゲン(デンマーク) 1926年4月15日 |
ヴィクトリア・フィルム (ノルウェーのオスロ) |
ヤーコブ・ブレーダー・ブルの小説「「グロムダールの花嫁(Glomdalsbruden)」と「エリーネ・ヴァンゲン(Eline Vangen)」 | ★ 脚本を用意することなくほとんど即興的に撮られる。 |
アイナー・オルセン | ★ | ★ | 観客、批評家から好意的に受け止められる・ | |
題名・原題・製作国・撮影場所 | 製作会社(場所) | 原作 | 脚本 | 撮影 | 美術 | 音楽 | 編集 | ||
1927 | 裁かるるジャンヌ LA PASSION DE JEANNE D'ARC フランス 封切 デンマーク 1928年4月21日 フランス 1928年10月25日 |
ソシエテ・ジェネセール・ドゥ・フィルム (パリ) |
裁判記録を基にしたので原作者はなし。 | ★ | ルドルフ・マテ | ヘルマン・ヴァルム、ジャン・ユーゴー、衣装ヴァレンティヌ・ユーゴー。時代考証ピエール・シャンピオン | ★ | 実際の裁判記録に基づいた裁判の再現を撮ろうとした。数か月続いた裁判をジャンヌが処刑された1431年5月30日1日に凝縮しすべての尋問がこの1日に行われているかのように撮る。ノーメークの俳優に字幕と同じ言葉をしゃべらせて撮影する。 | |
1931 | 吸血鬼 VAMPYR ドイツ、フランス 撮影場所・1930年夏、フランス。それを編集した後、ベルリンのトービス社で録音。 封切 ベルリン 1932年5月6日 |
カール・ドライヤーフィルムプロダクション(パリ)、トービス社(ベルリン) | ジョゼフ・シェリダン・ル・ファニュの短編小説「がらすの中にほの暗く(『In a Glass Darkly』)」(1886年刊) | ★、クリステン・ユール(ドライヤーは録音技術を学ぶためイギリスへ行きそこでデンマークの作家クリステン・ユールと出会う) | ルドルフ・マテ | ヘルマン・ヴァルム、 | ヴォルフガンク・ツェラー サウンドハンス・ビットマン |
★ | ドイツ、フランス、イギリスの三か国語で作られる。不評。プロの俳優は館の主人のモーリス・シュッツと姉役のシビレ・シュミッツのみであとは素人俳優。『灰色がかった画面と白い光とがこの映画の調子を形作ることになります』 |
1943 | 怒りの日 Vredens Dag デンマーク 封切 デンマーク11月13日。ドイツ占領下のデンマークにて公開。 |
パレージウム (コペンハーゲン) |
ノルウェーのハンス・ヴィアス=イェンセンの1908年に書かれた戯曲「アンネ・ペーダスドッテル(Anne Pedersdotter)」。実話をもとにしている。1909年ドライヤーはコペンハーゲンでこの戯曲を見ている。 | ★ | カール・アンデルション | エリック・オース 衣装リス・フリベアツ、K・サンツ=イェンセン、オルガ・トムセン 時代考証カイ・ウルダル |
ポ-ル・シアベック ■サウンド→エリック・ラスムッセン |
★、エーディット・シュルッセル、アンネ・マリー・ペーターセン | ドライヤーは「吸血鬼」(1931)の封切がベルリンでなされたあとデンマークに戻りそこから11年間をジャーナリストとして過ごす。 編集に12日かかった。 |
題名・原題・製作国・撮影場所 | 製作会社(場所) | 原作 | 脚本 | 撮影 | 美術 | 音楽 | 編集 | ||
1945 | Två människor 二人の人間 スウェーデン 封切 ストックホルム 4月23日 |
スヴェンスク・フィルムインドゥストリ (スウェーデン・ストックホルム) |
W・O・ゾーミンの戯曲「だまし討ち」 | ★、マーチン・グランナー(デンマーク人の作家) | グンナル・フィシェル | ニルス・スヴェンヴァル | ラーシュ=エーリック・ラーション ドライヤーの意見は反映されなかった。 |
★、エドヴィン・ハンメルベルイ 会社はドライヤーの意向を無視して編集してしまう。 |
映画製作をゲシュタポに利用されることを恐れたドライヤーは1943年末にドイツ占領下のデンマークを離れスウェーデンへ渡り亡命先のスウェーデンで撮る。経済的に映画を作る必要からスヴェンスク・フィルムインドゥストリと接触し登場人物が2人だけの映画を撮る。 |
1954 | 奇跡 ORDET(原題・言葉) デンマーク 撮影期間4か月。 撮影場所・2か月はデンマークのスタジオで、2か月はデンマーク西ユタランドの村ヴェデルソ。 封切 デンマーク 1955年1月11日 |
パレージウム (デンマーク・コペンハーゲン) |
カイ・ムンク(牧師であり劇作家の戯曲)が1925年に書き32年初演、.ドライヤーはその初演を見ている。カイ・ムンクは占領しているナチス政権との協力を公然と反対し暗殺される。映画の中で仕立て屋の家へ馬車で往復する時に丘の上に立っている十字架はムンクの遺体が発見された場所に建てられたもの。 | ★ | ヘニング・ベンツセン | エーリック・オース | ポ-ル・シアベック ■サウンド→クヌズ・クリステンセン ■音楽指揮エーミール・レーセン |
★、エーディット・シュルッセル | 第二次大戦後ドライヤーはデンマークに戻る。撮影は当日の決定によってなされる。 編集は5日で終わる。 観客、批評家から好意的に受け止められる。インガ役のビアギッテ・フェザースピールは本当に妊娠していて撮影期間中に出産、その陣痛を録音して実際の映画でそれを流す。 |
1964 | ガートルード デンマーク GERTRUD 撮影場所 スタジオ→ノーディスク社のスタジオ(パレージウムのスタジオが使用中だったため) ロケーション ヴァッロ城公園 撮影期間3か月 封切 パリ 1964年12月8日 デンマーク 1965年1月1日 |
パレージウム (デンマーク・コペンハーゲン) |
スウェーデンの作家ヤルマール・セーデルベルイ(戯曲)。 | ★ | ヘニング・ベンツセン | カイ・ラーシュ 衣装ベーリット・ニュキェア |
ヨアン・イェアシル ■サウンド→クヌズ・クリステンセン |
★、エーディット・シュルッセル | 劇作家のヤルマール・セーデルベルイとの共同作業。 稽古をたくさんしてから撮る。 編集は3日で終わった。 衣装の仕立てはアンナ・カリーナの母親。 |
題名・原題・製作国・撮影場所 | 製作会社(場所) | 原作 | 脚本 | 撮影 | 美術 | 音楽 | 編集 |
「聖なる映画作家、カール・ドライヤー」