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2011年封切館

      グッズ 映画館でグッズを売っている作品は◎
リアル・スティール(2011米) 80 76 監督ショーン・レヴィ脚本ジョン・ゲイティンズ製作総指揮スピルバーグ、ゼメキスほか撮影マウロ・フィローレ俳優ヒュー・ジャックマン

この脚本が、ジョン・ゲイティンズという人一人で書けるのかなと。スピルバーグがかなりちょっかいを出しているという感じがする。

ヒュー・ジャックマンは嘘つきのチンピラで、後先考えずに金を借りては返さず、姑息に逃げ回っては子供たちにもバカにされ、女には目がなく(最初の対戦で女に気を取られている隙にやられてしまう)、自分の子供の年齢も知らず、売り飛ばすようなケチな男、、、

これらが言葉ではなく運動によって撮られている。

その息子は初対面でいきなり父親に金を半分よこせと交渉を始め、一緒に連れて行かないとトラックのキーをドブに落とすぞと脅迫する=彼は父親似である。これがまたしても運動のみによって撮られている。

一見些細な出来事だが、人物描写を運動に変えてゆく、という映画的記憶を有する者は現在、極めて限られた範囲に集中していることを想起しなければならない。おそらくスピルバーグなりゼメキスなりが、ちょいと脚本を手直しした、そんなところか。

キャメラマンが「ティアーズ・オブ・サン」や「アバター」のフィローレだから、ひょっとして何とかなるのかな、と思っていたが、やや期待外れの76点。ゴダール的な「法廷でも通用する証拠」を出すとすると、子供が勾配を落下して、ジャックマンが救出したあとのクローズアップの照明などが最低。だが大きく言えば『黒』の出たそれなりに引き締まった画面を提示している。

役者の顔にちゃんとメイクをしないから、光が吸い取られて反射せず、パサパサの顔になっちゃう。

久々にシネコンで大笑い。このバカバカしさ、、、、よくここまでバカになれたと。

ちょいと女優さんが弱いか、、、、

グッズ◎ 買う。生まれて初めて映画館でフィギュアを買う。気に入った映画のグッズはほぼ100%売られていないという経験が遂に潰える。ナンバー06、アトムのロボット。うしし、、
モールス(2010米) 監督マット・リーヴス

『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008)をリメイク。2年前の映画をリメイクする人間の心境を知りたい。尊敬なのか、傲慢なのか。

80分ほど見たあらゆるショットが劣化コピーである。ふたつ目の病院のシークエンスの刑事のクローズアップの照明のまずさに駄目を確信したが、どこをどう育てばあのような見苦しいクローズアップが撮れてしまうのか。

撮る映画を端的に間違えている。無理矢理撮らされたのか、それとも自分の企画なのか、或いはキャメラマンとの折り合いが悪かったか、、、だがヒッチコックは折り合いの悪いテッド・テズラフと「汚名」(1946)を撮っているし、黒沢清は相性の悪かったキャメラマンと『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985)を撮っている。
タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密(2011米) 50 20 監督スピルバーグ

次作のスピルバーグ「戦火の馬」という作品の予告編を見ていると、久々に『黒』が出た感じのいい画面を出していて、本気だな、、というのが何となく分かるのだが、この作品についてはまずもって『照明』がどうにもなっていない。もちろんアニメに照明はないから括弧をつけて『照明』と書いているわけであるが、仮にアニメであれ実写であれ『光(の反射)』なくして人は何も見えないのであり、そうした観点の配慮が3Dの薄暗い画面と相まって欠けている。

船の模型の中から一本の鉄棒が出てきて、その中から暗号の書かれた紙切れが出て来た時、マクガフィンが意味の鎖に繋がれてしまい、映画は意味なくサメが人を襲った『ジョーズ』ではなく、戦略兵器の失敗という意味に包まれた『ピラニア』へと接近し、スピルバーグが『キャメロン』に早変わりする。この映画は基本的に「スピルバーグの映画」ではない。「もうひとつのスピルバーグの映画」である。

グッズ ◎ あっても買わない。
ラストエクソシズム(2010米) 監督ダニエル・スタム

『87分の映画』には到底見えない鈍行の各駅停車なので中途で下車した。、、、と思っていたが、、10日以上前に見た映画なので途中で出たのか最後まで見たのか忘れてしまった。たぶん見たような気もする。

この前の日に「イントレランス」(1916)を見直したのが悪かったのかもしれない。

そもそも人間などというものは簡単に操れるものである、、そういう考えを持つ者たちがこういう映画を撮る。

グッズ×
インモータルズ(2011米) 監督ターセム・シン

神々モノなら「パーシージャクソンとオリンポスの神々」の方がまだまし。
12/19更新
ゲンスブールと女たち(2010仏・米) 監督脚本原作ジョアン・スファール

50分弱で出る。

グッズ×
三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船(2011仏・米・英・独) 75 69 監督ポール・W・S・アンダーソン俳優ローガン・ラーマン、ミラ・ジョヴォヴィッチ

「ソルジャー」(1998)を撮ったポール・W・S・アンダーソンに敬意を表して見に行くと、あの頃の快活な活劇に近いバカバカしさに満ち溢れた画面に安心し、最後までゆったりと楽しむ。

ローガン・ラーマンの、トム・クルーズを意識したようなまゆ毛や眉間の動きに笑いながら、ミラ・ジョヴォヴィッチの太もものガーターはちょいとやり過ぎではないかと困った顔をして、だが最後の飛行船の浮遊感覚に酔った。

3Dは殆ど無意味。

グッズ×
エッセンシャルキリング(2010ポーランドほか) 79 80 監督脚本製作イエジー・スコリモフスキ俳優ギャロ

サイレント映画を撮っている。

「ハートロッカー」は「ほんとうです」と画面が揺れるが、この映画は「うそかも知れない」と揺れている。

すべては神の思し召し。気の弱そうなこのテロリストは、あらゆる瞬間において、まるで「三十九夜」(1935)のロバート・ドーナットのように「巻き込まれて」いる。そこにあるのは「神の意志」としての逆因果関係にほかならない。すべては神の思し召し。

イスラム教は現世においては決定論、来世は因果律。現世で善い行いをすれば現世では報われないが天国では酒池肉林、SEXし放題、それがイスラム教。現世の善い行い→来世で救済、となるから来世は因果律。だからイスラム教の原理主義はコワイ。現世で「善行」すれば現世では報われないが来世で必ず報われる。だからイスラム教には自爆テロがあり得る。キリスト教は現世も来世もすべて神の思し召し。だから自爆しても神の国に入れるかは判らない。リスクが高すぎるのでキリスト教徒は自爆テロをしない。理念型としてはこうなる。だがそんなイスラム教も現世においてはキリスト教と同じですべてが神の思し召し。「神様はなぜそのようなことをなさるのですか?」という問いに対して「それは神が決めたからだ」というのが決定論の逆因果関係。逆から来るから映画になる。だから映画作家はそれを撮る。イスラム教で運動が起動するのは因果律の来世ではなく決定論の現世。だからそこだけを撮る。そうして現世におけるイスラム教の逆因果関係を描いたのがこの「エッセンシャル・キリング」。

スコリモフスキが撮るのは「映画」であって「政治」ではない。彼はこの映画が「映画」になるから撮っているのであり、見ての通り映画の中には「すべては神の思し召し」=マクガフィンの坩堝によって満たされている。そもそも護送車の前に動物が出てきて事故になって脱出するなどという出来事はヒッチコックの以外の何ものでもなく、だからこそこの映画の運動は逆から来る。
逃亡する男の前には、まるて嘘としか思えない幸運や偶然が待ち受けており、彼はそれによって銃、車、防寒具、食糧、睡眠、治療、あらゆるものを手に入れてしまう。これらは男の「意志」によって得たものではない。「神の意志」によって逆からやって来たものである。この映画の中には、主題の深刻さとは裏腹に、まるでハリウッド映画のような「逆から来る」運動に満たされている。それは「うそのような=さしたる理由もなしに巻き込まれる」ことで自動生成してゆくヒッチコックの運動そのものである。

見事な娯楽映画。
ゴーストライター(2010仏・独・英) 監督ポランスキー

「コンテイジョン」に呆れ果てて30分で出て、「映画であってくれ、、」とすがるような気持ちで突入したものの、5分でそのあまりの出来の悪さにたじろぎ、退出する気すら萎えて50分放心状態で動けない。

若いのが活きのいいのを沢山撮っているのに、ソダーバーグやポランスキー、コーエン兄弟といった「ベテラン」達は未だにこういう映画を撮っている。古い。

グッズ×
コンテイジョン(2011米) 監督ソダーバーグ

30分で出て、ポランスキーの「ゴーストライター」へ飛び込む

グッズ×
マネーボール(2011米) 80 70 監督ベネット・ミラー俳優ブラッド・ピット

「カポーティ」の凡庸さに学んだのか、フィリップ・シーモア・ホフマンが演技をしない、させない、やらせない。そうして彼の演技を通常の俳優の3倍程度に抑え込む。すると映画は「映画」になる、ということでもないが、ちゃんと「映画」になっている。


ブラッド・ピットの顔がすべて。

相棒を引き抜くところ。すべてを悟らせず、周辺だけを丁寧に攻めてゆくと、サスペンスが生まれる。

物を投げたりひっくり返したりすると大抵映画が撮れてしまう。

凡庸を引きずってそのままゴールできてしまうところがアメリカ映画の強さ。

照明がいまひとつ。

グッズ×
1911(2011中) 監督チャン・リー俳優ジャッキー・チェン

テレビ画面に驚き30分で出る。

グッズ×
パラノーマル・アクティビティ3(2011米) 監督ヘンリー・ジュースト

数十分でサヨナラ。。

筋立ての奇抜さに引きずり込まれて映画を撮ることを忘れている。

ステレオタイプ。

グッズ×
未来を生きる君たちへ(2010デンマーク・スウェーデン) 64 64 監督スサンネ・ビア

ダメかな、、と思って見ていたが、平和主義が呼び込んだ暴力が映画を引き留め、私をして映画館から立ち去ることを躊躇させる。
ハンナ(2011米) 64 75 監督ジョー・ライト俳優シアーシャ・ローナン

活劇であるはずが、ヒッチハイクの家族たちとのエピソードなどから「外部」へと逃げてゆく。

コンテナのあいだのアクションが終わった後、駆けて逃げるシアーシャ・ローナンを背後からのトラッキングで捉えたショットなどは過程として躍動するが、地下駐車場を挟んだ長回しはそれが中心化されているがために解き放たれない。

グッズなし
11/25更新

ミッション:8ミニッツ(2011)

77 70 監督ダンカン・ジョーンズ俳優ジェイク・ギレンホール、ミシェル・モナハン、ヴェラ・ファーミガ

凡庸であるはずの映画が超特急の面白さで終わってしまう。これがアメリカ映画の凡庸力である。

月に囚われた男』の監督だからそれなりものは撮るだろう、ましてやこの上映時間ならまず「はずれ」はないはずだと決めて見始めたものの、最初の30分はさほど乗れず、ダメなのかなと諦め半分で見続けていると、閉塞とクローズアップの凡庸の中に埋没していたはずの画面が次第に力を帯び始め、最後の8分の、あの列車のデッキの窓際のミシェル・モナハンに当てられた、最良とは言い難いまでも芯の通った意図的な光によって、それまでは凡庸に繰り返されてきたかに見えた列車内の反覆の数々が、唯一の回帰における一回限りの出来事として映画史に吸収されてゆく。

反覆を、差異の中で露わにさせる出来事、それは光である。

グッズなし
あぜ道のダンディ(2010日) 66 50 監督脚本石井裕也、俳優光石研

力が最後まで持続してゆく。非常に優れたものと、非常に悪いものとが併存している。良い部分では涙が出るし、悪い部分では吐息が出る。

ゲームボーイを買いに行ったあの空間。ああいうだらしない空間を映画の画面に収めてはならない。光に感覚せよ。

厳しさと形式を放棄した『自由な』画面が外部の空気に絡め取られてゆく。メッセージなるものを過大に信じている悠長さが透けて見れる。

映画における生とは常に「おわり」という死へと向かって逆説的に再生産されてゆく瞬時の決断空間であることを知らず、「明日があるさ」といった非本来的な弛緩によって画面が弱められる。ああいう悪い酒を飲んだ居酒屋にまた何度も行けてしまう人間は果たして映画の中で生きていけるのか。あの居酒屋に戻るたびに画面は差異なき反復を生じ停滞してしまうのだ。

20分長い。くどく鈍い。力はある。
カウボーイ&エイリアン(2011米) 77 77 監督ジョン・ファヴロー俳優ダニエル・クレイヴ、ハリソン・フォード、ポール・ダノ

まさかこのタイトルの映画で泣くことはないだろうと油断していた。

西部劇において馬は何よりも『歩くこと』であることを何故か知っている。二頭の馬の馬上で人々が会話をし、一人が前へ去ってゆくとそこへ後方からの一頭がやってきてまた会話が始まる。『ジョン・フォードなのか、、』と思った瞬間、荒野の只中を雷光が突き刺してしまう。(『黄色いリボン』)。

同じく人々が連れ去られた映画である『馬上の二人』(1961)や『捜索者』(1956)の場合、そこには『連れ戻すこと』に関する怖ろしいばかりの葛藤が露呈していた。詳しくは私の「チェンジリング」(2008)の批評に譲るが、この作品にはそうした幾重にも張られた主題としての厚さが足りない。ジョン・フォードにおいて『悪』とは内部に巣食う闘争だが、この作品の『悪』はアメリカの外部にある。それがポストモダンなのか、、

スターはハリソン・フォードであり、ハリソン・フォードはスターである。もしハリソン・フォードを使うのなら他の役者は脇として配置すべき。何をやっても食われてしまう。

余りにも楽しくありながら、すべてのエピソードが平等に弱い。

グッズ×
パレルモ・シューティング(2008独ほか) 70 83 監督脚本ベンダース

人をぶんぞり返るように横たえさせて、その主観ショットで相手を逆さまにフレームに映し出してしまう。そんなことをできてしまうのはヒッチコックしかいないと思いながら(「汚名」(1946))、否、「泥棒成金」(1955)のグレー・ケリーもハイキングの車のシートにふんぞり返ってケーリー・グラントとキスをしていたし、それを言うならヒッチコックが『大好き』と公言するムルナウの「タルチュフ」(1925)のリル・ダーゴヴァーもエミール・ヤニングスを誘惑するために思い切りのけぞっていたなと思いだし、死神はフリッツ・ラング『死滅の谷』(1921)に遡ったりもしている。

デニス・ホッパーとすれ違ったあとハイウェイを降りたところのショットに惹かれ、あとはそのまま乗って行けばよかった。

若々しいというのか、ちょっと若々し過ぎる。

最近のベンダースの中では一番乗れた。
10/28更新
一命(2011日) 監督三池崇史

道徳の授業を映画館で受けるのも何なので1時間チョイで出る。

民主的な凡庸さの底が抜けている。

制度的であり、押しつけがましく、だらしがない。震災なんて知りませんという、典型的な日本型シネコン映画の最前線としてある。

山田洋次の弟子筋。

最初の役所広司の顔を見て、ああ、だめだと。こうして3分で映画がダメだと分かった時の徒労感はまことに表現し難いので表現しない。

役者たちはみな顔を造り、声を造り、媚を売り、善悪のグノーシス的二元論を擦り付けてくる。

海老蔵の長屋の奥の石段は、まさか「人情紙風船」(1937)ではあるまいと思うが、どう見たところで「人情紙風船」をやっているつもりであろうことに苛立つ。

まるで「キネマ旬報」の表紙のような濃淡を欠いた画面が延々と弛緩しながらだらだらと同一を反覆説明してゆく。

『はしっこ』しかない。

怖ろしさのカケラもない予定調和の説明映画。

今、これだけは撮ってはならないという凡庸の見本市。
キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー(2011) 74 66 監督ジョー・ジョンストン、俳優クリス・エヴァンス、スタンリー・トゥッチ

楽しい。ジョー・ジョンストンでこんなに乗れるとは。

『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』の線に沿って続きモノとしての過程性をホークス的断片性まで高め放り出している。路地裏で殴られる。生意気な兵隊が女上官に殴られる。ポールのねじを外して旗を取る。手榴弾を身を挺して防御する。捕虜たちを救出する。パラシュートで降下して敵のアジトに忍び込む。、というシークエンスが即座に想起できるのは、それらのシークエンスがエッセイ=断章として撮られているからだ。

3Dの暗い画面に光が吸収されている。

捕虜救出のためにクリス・エヴァンスが敵のアジトに一人で侵入する時、トラックの中から兵士を倒した瞬間の引きのショット、その次に、アジトの中へと侵入して敵の兵士を倒した後の引きのショット、こうしたさり気なくも優秀な=ただそれだけでその場の状況を語り占めてしまうショットが積み重ねられることで映画は活劇となる。

多くを視覚によって説明しているこの映画は受けないだろう。

クリス・エヴァンスをジョン・ウェインのように撮る。折角細身で映画的であった青年を『ジョン・ウェイン』にしてしまう。無理やりにでも『ジョン・ウェイン』にして撮ろうという意志。あらゆる映画は媒介された映画史であり、記憶の集積であるという事実にただ端的に忠実であるというに過ぎない。

グッズあり
アリス・クリードの失踪(2009英) 70 70 監督脚本J・ブレイクソン

と言うわけで『悲しみのミルク』に続いて見る。

映画だ、と喜ぶ。凡庸であれ何であれ、映画であってくれたら。

監禁用の部屋と車だけで映画の8割が撮られている。

哀しみのミルク(2008ペルー)
『悲しみのミルク』を見て『悲しみの藤村隆史』になる。

暴力的凡庸さに30分の睡眠で対抗したが画面は変化しなかったので55分で出て本屋に行き、次の「アリス・クリードの失踪」まで時間をつなぐ。凡庸な映画はあらゆる出来事の中で最悪の拷問である。

最初のショット、老婆のクローズアップが最初に「でん」と画面の中央に「でん」と入ってきた瞬間→1分で映画がダメだと判ってしまうその空しさは説明不能なので説明しない。

最初のクローズアップの入り方であらゆる映画の優劣は決まる。
アンフェア the answer 監督脚本佐藤嗣麻子

映画序盤の朝、窓をバックにしたベッドの篠原涼子のショットは最高だが、直後の眠っている佐藤浩市へと切り返されたショットは最低。その「最低」さを判っていないことがさらに最低。

時間がいつまでも続くことを前提に撮られている。すべては説明され、共に理解され、共にシネコンを後にするために撮られている。
10/18更新
猿の惑星:創世記(ジェネシス)(2011米) 77 70 監督ルパート・ワイアット

「A」であり、「B」ではなく、心理的であり、活劇ではないが、活劇に近い。

■「A」
「ジョーズ」「激突」と異なって猿には反乱を起こす理由があり、その点では「ピラニア」シリーズに近く、従ってスピルバーグ的というよりもどちらかといえばキャメロンに近いと言うべきで、猿の造形にしてもその表情が非常に心理的であることは、この作品が「A」への傾向を有することの証左として露呈している。

しかしこの作品はその『理由』がその後の画面を重くすることを最小限に止めつつ、最小の台詞と最大の運動によって心理劇と堕するところを見事に回避している。彼らは知能を持つことで反乱という運動を始めたわけだが、知能は有していても言葉を有していないことが『映画』へとつながり、視覚的な細部が豊かに立ち現われている。

この作品がシリーズものとして撮られたかどうかは知らないが、そもそも「シリーズもの」とはそのひとつの話によってすべてを完結することを否とすることならば、結果ではなく過程が重視されることとなり、映画的な活劇へと接近することと必ずしも矛盾しないことになる。有体に言うならば、「シリーズもの」において重要なのはその『第何作目』かではなく、どちらかと言えばその『分数』である。この作品は106分。エンドロールを除くと100分弱で撮られている。

次の作品からは知能に加えて『言葉』というものを持ってしまうので、『分数』その他、厳しいことにはなるだろう。

収容された園の岩の上にチンパンジーと共に座っている姿などは強引にもシーゲル『アルカトラズからの脱出』(1979)を想起させてしまうような図々しさがある。

グッズ×
親愛なるきみへ(2010米) 50 60 監督ラッセ・ハルストレム俳優チャニング・テイタム、アマンダ・セイフライド

どこをどうするとこんなつまらない男と女が映画になるのか。それとも映画を撮っている最中にこの二人はつまらない男と女に撮られ変わって行ったのか。

チャニング・テイタムが軍役のためにドイツへ帰ってからがどうにも映画にならない。どうしてあそこから回想が始まるのか。

序盤の光はそれなりに的を得たものだが、中盤、ドイツへ帰って以降、凡庸へと回帰してゆく。チャニング・テイタムが病院の廊下で瀕死の父の横で手紙を読むというあらずもがなのシーンは、そのシーンがあらずもがなだけに、照明もまたあらずもがなになっている。

終盤の再会の時、チャニング・テイタムの父が死んだことを聞いたアマンダ・セイフライドが両手を口に当てて「はっ!」と驚く仕草をした時、あちゃ、と思わず呟いてしまったが、どこをどう突けばこんな、まるで池中玄太みたいな演技がこの場面で飛び出すというのだ。

ワーストに入れてもよいくらいの悪い映画だが、それほどでもないかと見送る。

グッズ×
ワイルド・スピード MEGA MAX(2011) 監督ジャスティン・リン

一時間ほど楽しんでから出る。

エンドロールを除けば90分の範囲で撮りあげていたワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT(2006)の活劇性が、120分を超える、あり得る筈の無い鈍麻な数字によってモグラたたきされている。

グッズ×
蜂蜜(2010トルコ、ドイツ) 40 85 監督脚本セミフ・カプランオール

■「卵」「ミルク」
この「蜂蜜」を見た後、セミフ・カプランオールの特集上映で「卵」「ミルク」を見る。処女作の「卵」は滅法鋭く、「ミルク」になると鼻につき、「蜂蜜」となると『社会性』へと堕してゆく。鷹揚に撮られていた映画が次第に俗の世界へと堕してゆき、スノッブ受けする『アート映画』へと媚びてゆく過程が見られる。その「蜂蜜」に賞を授けてしまうというのが人間の面白さである。

■『蜂蜜』
エリセ的であり、タルコフスキー的でもあり、時としてアンゲロプロスを髣髴させ、はたまたミゾグチを想起させたりしながらも、全然違う。

中盤、子供が納屋で寝ようとしたとき、正面からの構図において不意に馬の鳴き声でおこされ、汲んできたバケツがやや俯瞰からの逆構図の画面において地面に落ちて水浸しになるというシークエンスについて見うけられるのは、結局のところ、「はしっこ」としての筋立ての媚に過ぎない。

大好きな父親が親友にプレゼントをあげているのを木陰から「窃視」した息子は嫉妬に駆られ、学校でその親友の宿題帳を何も書いていない自分のノートと取り換えて先生に叱られさせて報復し、あとで後悔をして学校を休んだ子供を見舞に行って船のオブジェをあげて、、、という流れはひたすら「読む」しかない。

キャメラマンの提示する画面の濃淡明暗は目を見張るものがあるにもかかわず、画面が物語に利用されているために枯渇している。映画とは常にラストシーンへと向けられた終わりへのフィルム的連鎖でありながら、終わりを知らない画面が延々と続いてゆく。バケツに反射した月を子供が幾度か手ですくいにかかるという呆れ果てるほど道徳的な画面を延々と提示した時、、この映画は実質的に賞を得たと言ってよい。

子供に対する演技指導の痕跡が顕著に現れた時、生成を隠蔽した枠となる。
■「卵」
だからといってこの「卵」が消えてなくなるわけではない。カプランオールの映画が『社会』を目指す前の、カラフルな孤独としての撮影で満ち溢れているこの「卵」は、いかにも、さも、といった子供の演技にまるごと『社会化』してしまった『蜂蜜』の中にかすかに残存するところの、反社会的なるものによって生き生きと動いている。
サンクタム(2010米) 監督アリスター・グリアーソン

30分しても何をやっているのか分からない。この人たちが地下探査をしている『理由』がどこにもない。

役者の顔がみな同じだ。

今日は最後まで見ようと決心してやってきたが、ゴーゴーカレーが食べたくなったので50分で出る。

3Dはただひたすら飛び出すことでしかない。どうしてこんなものに特別料金が必要なのか、分かっていても分からない。

どうしてこういうつまらないもの『だけを選んで』輸入するのか。

グッズ×
10/7更新
スパイキッズ4D:ワールドタイム・ミッション(2011) 69 69 監督製作脚本撮影ロバート・ロドリゲス俳優ジェシカ・アルバ、アレクサ・ヴェガ、ジェレミー・ピヴェン

傑作と断言することにいささかのためらいもない『スパイキッズ2001』はひたすら活劇としてのメキシコ臭を漂わせ、リカルド・モンタルバンをグランパに仕立て上げ映画そのものを映画へのオマージュへと発展させた『2失われた夢の島2002』では私の涙腺を破壊させ、スタローンを悪役に起用しながらまるでモナドのバーチャル空間で織り上げた『3ゲームオーバー2003』においてはそのリカルド・モンタルバンをひたすらローアングルから撮り続けることで『映画』としてのシリーズは完結したはずだった。それから8年経った今、これを敢えて撮る必要を探るとすれば、、、、

照明がどうにもひとつ。イマイチ乗れない。

『におい』が画面の外へ出た分、画面の中のにおい=ラテン臭が消えている。新しい『キッズ』に「におい」がない。大きくなったアレクサ・ヴェガからも「におい」が消えた。

ラストシーンで赤ん坊が歩いたとき、キャメラは内側から切り返され、ジェシカ・アルバ等と赤ん坊とは同一の画面内に収まっていない。これがひとつにロバート・ロドリゲスのひとつの性向というもので、彼の画面の多くは内側から切り返されることでショットとショットのあいだにズレが出る。映画における『内側の性向』のそもそもはクローズアップの欲望から生じたと思われるが、その欲望は『話のすじ』とは何の関係もないところからやってきた。

例えば『出のショット(スターの姿が初めて画面の中にそれとわかるかたちで入るショット)』は、そうした一連の欲望がストーリーの流れの中に巧妙に流れ込んで出来たもので、その起源は『話のすじ』にではなく欲望にある。ハリウッド映画の古典的デクパージュやカッティング・イン・アクションは、映画初期の欲望を巧妙に隠しながら画面を進めてゆくところのひとつのトリックとして無意識的に考案された産物だが、どんなに隠したところで欲望は時として古典的デクパージュやカッティング・イン・アクションの『あいだ』に亡霊のように露呈してしまう。形式によって隠された欲望が、どこからともなく溢出する、その亡霊を言葉によって掴むことが映画批評である。
亡霊の出どころのひとつが『内側の性向』としてあり、初期映画からD・W・グリフィス、ヒッチコック、ホークスによって受け継がれたその渓流は、現在もロバート・ロドリゲス、イーストウッド、キアロスタミ、北野武、黒沢清等によって無意識的に遺されている。「コクリコ坂から」(2011)の『上を向いて歩こう』をバックにした路地での海との俊との鉢合わせは、『内側から』無言で切り返された幾つかのショットが亡霊を出現させてしまっている。「ヒア アフター」(2010)のデイモンとブライス・ダラス・ハワードとの料理学校での出会いのシーン、そしてラストシーン直前の切り返しも同様に無言かつ内側から切り返された亡霊の映画史と決して無関係ではない。内側を制する者は映画史を制する。、、

ロバート・ロドリゲスとは、アレクサ・ヴェガの出のショットに見られるように、結局のところ『ポーズを取る(撮る)こと』に集約される。

亡霊に出会いたい時、そこに「国民の創生」(1915)がある。

グッズ×

世界侵略:ロサンゼルス決戦(2011)

40 70 監督ジョナサン・リーベスマン

『5分でダメな映画は最後までダメ』を改めて確認して一安心。

『映画学校』で教わった通りに撮っている。

アーロン・エッカートが部下の信頼を得るという映画の見せ場をすべて暗記された言葉でこなしているが、その言葉が振動しない。

グッズ×
探偵はBARにいる(2011日) 監督橋本一

大泉洋はテレビのように演じてしまう。
バビロンの陽光(2010イラク他) 監督モハメド・アルダラジー

「イラク」という響きだけでそこに古代のピュシス、自然があると感じるのは錯覚、現代病である。ここにあるのは有りもしないユートピアとして夢想された「がらくた」に過ぎない。

中東に『キアロスタミ』はひとりしかいない。それはキアロスタミであってアルダラジーではない。マフマルバフでもない。
グリーン・ランタン(2011米) 監督マーティン・キャンベル

特に何もないことを確認し、40分で出る。

吹き替えの声優のステレオタイプのしゃべりに鼓膜が萎える。まるで「正しい吹き替え」を物まねのようにしゃべっている。

グッズ×
9/24更新
「コクリコ坂から」(2011日) 95 80 監督宮崎吾朗、脚本宮崎駿

批評あり。

あるシーンをイメージして、そこに物語を後付けしてゆく。だからこそ物語はギクシャクする。これはあらゆる選ばれた監督の基本的特質で今更説明するまでもないと思っていたが、どうも説明が必要らしいので説明した。

『宮崎駿はアニメではなくなった』と駄々をこねる者が後を絶たないが、そうした否定神学に溺れる前に、端的に『宮崎駿は映画である』と肯定してしまえばよろしい。

宮崎駿を否定することが、インテリの目印に繋がっている。

人間として個人的に付き合うならば、私は間違いなく駿ではなく吾朗を選ぶが。

「ゲド戦記」の試写会では退屈だと中途で退出し休憩していた宮崎駿が今回の試写会では泣いている。映画の運動の向きが逆だからである。
四つのいのち(2010伊) 50 60 監督脚本ミケランジェロ・フランマルティーノ

ドキュメンタリーっぽいが『脚本』とあるようにフィクション。どちらでもよい。

一見炸裂しているが、実は画面が『読めて』しまう。『なか』の宝庫のように見えていて、多くは『はしっこ』に包まれている。

なにがしかの才能はあるのだろうが、映画を撮るには映画的才能が必要である、という事実が立ち塞がって動かない。

犬の長回しにしても、笑いはしたが、結局『読めて』しまう。
ヤコブへの手紙(2009フィンランド) 監督クラウス・ハロ

なにかが始まろうとする気配がないので20分ほど眠り、そして目を開け、また20分ほど見て立ち去る。
ライフーいのちをつなぐ物語(2011英) 50 40 監督マイケル・ガントン

イギリス人の撮ったドキュメンタリーに、『いのちをつなぐ物語』という、さも日本的な副題を添付することで、ちゃんと日本流シネコン映画への感傷へと転落させている。がんばったネ、生きようね、、

松たか子の、まるで白痴を諭しているかの如きナレーションがたったひとつの読みを強制する語りとなって終始耳につく。

『オリジナル』の出来も褒められたものではなく、語られる物語はハナから決められており、画面はその都度ステレオタイプの全体の中へとおとなしく取り込まれてゆく。

百科事典だ。

グッズ◎
LIFE IN A DAY 地球上のある一日の物語(2011英米) 65 60 監督ケヴィン・マクドナルド製作総指揮リドリー・トコット、トニー・スコット

「消されたヘッドライン」(2009)を撮ったケヴィン・マクドナルドであるから、それなりに撮るのではと思って見ていたが、どうも出だしがよろしくない。だがこれは、そもそも世界中から集められた2010、7.24日の私的映像の寄せ集めなので、編集によっては中途でよくなることもあり得ると辛抱して見ているとよくなった。

グッズ×
シャンハイ(2010米) 監督ミカエル・ハフストローム

「ザ・ライト エクソシストの真実」の監督だから、まさか相当にひどいことにはならないだろうとシネコンの椅子に深々と身を沈めながら見ていると、ひどいことになったので帰る。
無常素描(2011日) 70 70 監督大宮浩一

東北震災の津波跡地を訪れた一人の医者のドキュメンタリー。

医者の顔つきがなんとなく内田樹似なので、『こりゃだめだ、』と頭を抱えて見ていたが、いつまで経っても致命的なミスをしない、それどころか終盤、インタビューをしていた被災者の男性が泣き始めると内田のキャメラが、、否、大宮浩一の指示したキャメラがゆっくりと引かれてゆくではないか。河瀬直美には決して不可能なしとやかなキャメラの運きにびっくりしている間もなく、その次に、石の上に座ったその被災者が、こちらへ向かって笑っているかのように手を振っているロングショットが入ってくる。キャメラは男性の『手を振る』という運動を微動だにせず15メートルほどの距離を保ちながら捉え続けている。いったい何が彼をして『被災者の涙を撮らない』という性向へと駆り立てたのか。それは観察を職務とする医者の性向と必ずしも対立するものではないだろう。

草とか花とか鯉のぼりとか、何かがひたすら画面の隅っこやバックで風に揺れている。これを偶然と見るには余りに多くのものたちが風に揺らされている。
Peace ピース(2010日) 65 60 監督想田和弘

ドキュメンタリー。

脈略のなさに耐えるのではなく無関心。文ではなく語。まとめるのではなく放り出す。

これで『照明』に気を使ってくれると。
ツリー・オブ・ライフ(2011米) 監督テレンス・マリック

「たまてばこ」2011.8.15に書いた通り。

グッズ×

こちら葛飾区亀有公園前派出所 THE MOVIE ~勝どき橋を封鎖せよ!~(2011)


なにこれは。
トランスフォーマー・ダイクサイドムーン(2011米
監督マイケル・ベイ

35分見て、この画面とあと2時間付き合うのか、それとも家に帰って「コクリコ坂から」(2011)の批評を書くかを考えて速やかに立ち去る。

無駄な動きを極限まで排除して物語映画に寄与した傑作「バッド・ボーイズ」(1995)の禁欲的静止画面の見る影もなく、何の意味もないキャメラの暴走がその都度画面を弛緩させ、だらしなく解き放られている。ヒッチコックはキャメラの軸を動かすことで映画的サスペンスを獲得したが、マイケル・ベイはキャメラの軸を動かし始めた時点で幼児化へと凝固する。

ローキイではなく、暗くて見えない3D画面の技術的レベルとプラスして、端的に映画的レベルを欠いている。

グッズなし
アイ・アム・ナンバー4(2011米) 監督D・J・カルーソー

これが「テイキング・ライブス」(2004)を撮ったD・J・カルーソーの映画なのか。ヒッチコックへの拙いながらも一直線の愛を惜しみ隠さず晒し続けた「テイキング・ライブス」の、胸元のシャツの肌けたアンジェリーナ・ジョリーの活劇が途方もない消耗によってアッサリと消え失せている。

グッズなし
SONEWERE 監督ソフィア・コッポラ

30分で出る。

向いていない。
シリアスマン 監督コーエン兄弟

こういう方向へ行かざるを得ない監督をこれまで何十人と見てきた。

画面ではなく言語へ行ってしまう。
9/9更新
X-MEN:ファースト・ジェネレーション(2011米) 監督脚本マシュー・ヴォーン

殴ってやりたくなる愚鈍な画面の連続に瞳が耐えられず20分で出ようとしたが、万が一とあと10分見て、どうにもならない凡庸さを見届けてから出る。

「キック・アス」の凡庸さを遥か凌いでいる。

端的に情熱を欠いている。撮る方も、褒める方も。

よくこんな古臭い画面をあの切り返しとあの光との関係において提示できるなと。これは「2002年の画面」だ。
アンダルシア 女神の報復(2011日) 55 60 監督西谷弘、脚本池上純哉

とてつもない細部に充たされていた「アマルフィ 女神の報酬」(2009)とは似ても似つかぬ凡庸な画面に、なるほどね、と心で呟きながら、鑑賞を終える。その「なるほどね」とはあくまで推論の域を出ず、また、それについては去年だかおととしだかの大晦日の「たまてばこ」に書いたはずなのでここでは繰り返さない。

脚本家協会には脚本家の名前が出ておめでとうと言っておこう。やっと「前例」が踏襲できたわけだ。
SUPER 8/スーパーエイト(2011米) 82 78 監督製作脚本J・J・エイブラムス

グッズを売らない映画としての誇りのようなものがここにある。

スピルバーグが相当絡んでいるのはないかと。脚本に。確かにスピルバーグは製作総指揮だが、だからと言ってこれまでの製作総指揮で文字通り製作を総指揮して来たわけではなく、脚本には余り手を出して来なかったように見えていたのだが、この作品は見たところ、最良のスピルバーグ的な香りに充たされており、どうやらスピルバーグは相当脚本に手を出したように私には見えてしまう。具体的に提示してみる。

■脚本の書き方の違い

①感傷の排除
●娘が
8ミリを見ながら父のせいでコートニーの母が死んだと泣いて打ち明けた時、机の上に置いてあったルービックキューブのようなものが振動し始めて感傷が運動へと発展してゆく
(その前、窓から入る娘と手をつなぐ)
●8ミリを映写中、監督の少年が、コートニーがファニングと相思相愛であることをなじった時、少年のシャツに「あれ」の影が
スクリーンから映ってきて、感傷が運動へと発展してゆく。

マクガフィン そもそもスピルバーグのデビューは反心理的なマクガフィン運動と共に始まっている。「激突」でのあの大型タンクローリーは、ただデニス・ウィーヴァーの乗用車を追走する為にのみ存在しており、だからこそそこには運転手という心理的な存在は最後まで描かれることはない。運転手を『描いて』しまえばそこには必ずや社会的=心理的な理由が必要となる。どうして彼は追走するのか。だが鼻からそんな理由など存在しない。何故ならあのタンクローリーは、ひたすらデニス・ウィーヴァーを追走するためにおいてのみ存在するからである、だからこそスピルバーグは決して運転手を描こうとはしなかった。「ジョーズ」にしてもまったく同様だ。何故あのサメは人を襲うのか。その理由は最後まで分からない。「ジョーズ」において描かれたサメは「激突」のタンクローリーそのものであり、しかし「ジョーズ」においても「激突」と同じように「サメの背後」は決して描かれていない。ここが「ピラニアシリーズ」との違いであることはどこかで書いたが、「ピラニアシリーズ」には「背後=襲う理由」が存在してしまっているが故に、その運動は常に背後の心理的な理由によって制約され、言語的なものによって絡め取られてしまう。マクガフィン的であることとは成瀬論文でも書き続けた通り運動が解放されることであり、映画がその外部(心理・文学・社会)の制約から解き放たれることのひとつの露呈である。「続・激突!/カージャック」(1974)におけるあの赤ん坊もまた、Aという地点からBという地点までにおける暴走した車の滑走を惹き起こすためのマクガフィンに過ぎず、実際そうした運動さえ惹き起こすことができさえすれば、あの赤ん坊は別にあの赤ん坊である必要はなく、金塊であっても恋人であっても名誉であっても、ただひたすら人間の理性を失わせるに足りる欲望を惹き起こすものでありさえすれば何でもよかったのである。(インテリ批評家は、そのどうでもいいマクガフィンを目的としてジェンダー論などを始めてしまう。それを嘲笑ったのがヒッチコック・トリュフォーの「映画術」である。)。「激突」や「ジョーズ」によってスピルバーグは徹底して運動の「背後」を消し去ったように、「続・激突!/カージャック」のスピルバーグは「赤ん坊」という母性的マクガフィンを配置することによって、母としてのゴールディ・ホーンの運動を「背後」という心理的紐帯からひきちぎり、「狂気」へと解き放ったのである。

●ファニングがゾンビの演技をしながらコートニーの首筋に噛みつくシーン。ここは噛みつくためにゾンビの演技が必要とされている(逆から撮られている)
●終盤、戦車が勝手に大砲を撃って来て町中が大騒ぎの時、少年たちは
4人で民家に逃げ込み、刑事役の少年が足を怪我し、監督役の少年が看病して、残ったコートニーと火薬好きの少年とでファニング娘を助けに行く。ここで、わざわざ一時的に民家に避難するというのはおかしい。ここは余計な二人を排除するために、4人はわざわざ民家の中へ避難したと見るべき。そうすることで、物語を進めるうえで機能的に必要な二人の少年だけで娘を助けに行けることになる。マクガフィンとは運動との関係で言うならば、それは常に機能としてある。

決断 コートニーがファニングの家にやって来て、映画に参加してくれと頼んいるとき、帰って来た父親に促されてファニングが家に入った後、すぐ顔を出して「わたしやるわ」と決断を告げる。ここにおいて娘が映画に出るという「決断」には、社会的に「映画に出る」ことに合理的な理由が配置されていない。ただ父親が帰ってきて、家に入れと怒られただけである。『少女たちの羅針盤』(2011)の批評においても検討したが、それは一見簡単に見えて実は稀有な現象として映画史を彩り続けている。

グッズなし
シチリア!シチリア!(2009伊・仏) 監督ジュゼッペ・トルナトーレ

何も出なくてもいいじゃないかと抵抗する自分に、もう一人の自分が「出ろ、出ろ」と囁くので仕方なく45分で退席する。何一つ起こらない。
スカイライン 征服(2011米) 37分で出る

アメリカにはいい映画が沢山あるのに、よりによってこういうマヌケを輸入する。

画面がテレビ。

グッズなし
さや侍(2011日) 監督脚本松本人志

今、という時間に対する盲目的な勘違いに支配されている。

「遺書」の頃は弾けていたが、「怒り・青本」あたりになると凡庸さを如何ともしがたい。

住んでいる世界が狭い。こういうものが通用するはずがないという想像力、横への感性に欠けている。

シネコン日本映画の典型を撮っている。
パラダイス・キス(2011日)

25分ほど見て、眼を閉じ、日本の行く末について5分ほど考え、席を立つ。

古く、鈍く、老いぼれている。こういう映画を青春期の者たちに見せると亡霊になり、良き官僚となる。
マイ・バック・ページ(2011日) 監督山下敦弘

25分で出る
冷たい熱帯魚(2010日) 60 50 監督園子温、俳優吹越満、でんでん

役者という人種は一度役にのめり込むと止まらない。でんでは止まらない。でんでん止まらない。

その強烈さが画面の力へとつながらないのは何故か。そこに映画の醍醐味が潜んでいる。

意図的な意外性は凡庸へと帰結する。

驚きが言語的。
少女たちの羅針盤(2010日) 80 80 監督長崎俊一、撮影柳島克己、俳優成海璃子、忽那汐里、森田彩華、草刈麻有、黒川智花、戸田菜穂

批評あり


女優たちの顔が瑞々しい。それには瑞々しいだけの確かな理由がある。それを批評に書いた。なんとしてもこの作品は書かなくてはならない。

こういう映画が語られず、バカみたいな駄作が延々と語られる批評界、そこに義憤を感じない者たちはひたすら震災前の亡霊として震災後を漂い続けるだろう。
6/29更新
アジャストメント(2011米) 75 60 監督脚本ジョージ・ノルフィ俳優マット・デイモン、エミリー・ブラント

よくこういうものを映画にするなと。アメリカという国は、大元は一神教のプロテスタントの国だから、基本的には偶然ではなく必然、自由意志ではなく決定論の国であり、まさに「ナイト&デイ」(2010)のキャメロン・ディアスがそうであったように、すべては「神」の思し召し、運命に振り回されることが運動へと繋がってゆく、そういう映画の有り方が、運動という不変をグローバルなものとしてハリウッド映画を世界に普及させていったようなところがある。運動は思想を持たないが故にグローバル化出来る。そうした中で自由意志という「思想」を挿入させると映画の運動はどういう力を及ぼされるのか。それがこの映画の主題である。、、というのはうそ。

だがよくよくこの映画を見てみると、運動は基本的には運命によって起動しており、そこに抗おうともがく自由意志と運命とがほど良き葛藤の中で無色化され、自由意志が運動を阻害しようとはしない。要は自由意志というか運命と言うかは、あくまでも「と言うか」の差異であって、そもそもその出来事が偶然か必然なのかということは極めて主観的なものなのとして後発的に決定されるに過ぎない。例えば人は偶然という理由のない出来事に耐えられない。だからそれを運命という必然=原因と結果が合理的に存在するものとして捉えたがる傾向がある。だがそれが果たして運命なのか偶然なのかは実際証明できない。科学的な証明は、ひとつの説明に過ぎない。

以上を映画的な言説に引き直すならば、映画の中での運動が解き放たれたものとしてある限り、仮に映画の字幕や人物の言葉が「自由意志」という心理=ほんとうらしさを謳おうと、それは「運命」によって必然的に作動された運動としてある。結局のところ、映画を読むのか、見るのか、という差異に行きつく。台詞に「自由意志」と言われた運動が自由意志によってなされた保証はどこにもない。重要なのは、運動が他によって引き起こされているのか=荒唐無稽なのかそうではないのかを、身体によって見極めることである。

例えば、どうしてデイモンの運命はコーヒーをこぼすことによって変えられることになっていたのかと言えば、それはそのコーヒーをエミリー・ブラントのミニスカートの上にこぼしたいからに決まっている。こういう逆からの構想をこの映画には容易に見出すことができる。だからこそ、私の瞳は徒労することなく120分、動き続けることができる。ちなみにこの「逆からの構想」が何故に映画を豊かにするのか、それは成瀬巳喜男の論文に書かれている。

凡庸だが面白い、ここのところのアメリカ映画の特徴をいかんなく発揮している。最初の30分は夢のような30分だ。

グッズなし
クリスマス・ストーリー(2008仏) 75 68 監督脚本アルノー・デプレシャン脚本エマニュエル・ブルデュー撮影エリック・ゴーティエ俳優カトリーヌ・ドヌーブ、アンヌ・コンシニ、マチュー・アマルリック、エマニュエル・ドゥヴォス

アンヌ・コンシニとマチュー・アマルリックとが不和の姉弟であり、不和であるからには当然不和なりの表情があってもいいはずであるという私の心理的憶測をその都度打ち破り、姉のアンヌ・コンシニは憎んでいるはずのマチュー・アマルリックに対して実にいい顔をしている。皮肉にふざける弟を見つめるアンヌ・コンシニの顔と眼差しが、間違っても憎しみの内面を現すどころか生き生きと躍動しているのだ。これは監督が指導してこうなっているのか、それとも自発的なのか。さっぱりわからない。

見た目では、脚本をあらかじめはっきりと決めて撮っていないように見える。例えば弟のローラン・カペリュートが外へ飲みに行って、あいつは酒癖が悪いからと、キアラ・マストロヤンニ等が探しに行く、という流れをひとつ取ってみると、そもそもローラン・カペリュートはそのような酒癖の悪い人間としてそれまで描かれてはおらず、突如物語の構成上、酒癖が悪くなったことにされたとしか見えない。妻のキアラ・マストロヤンニが朝、同じベッドで裸でローラン・カペリュートと寝ているのを戸口から見た夫のメルヴィル・プポーが快活そうに微笑むというのもまた、その場限りのものとして突出している。物語の流れにおいて断片的であり、人物の背後を悟らせること心理的な辻褄合わせをひたすらやり過ごしている。

照明が面白くない。

アイリスの入り方がD・W・グリフィスというよりもトリュフォー的で、音楽にしてもトリュフォーのサスペンス調に聞こえる。

私はアルノー・デプレシャンの、特にエマニュエル・ドゥヴォスの演技が苦手だったので、いい流れの中にエマニュエル・ドゥヴォスが入ってきたときヤバイ、と狼狽したが、この作品についてはなんとかセーフで踏ん張っている。

「トスカーナの贋作」「MAD探偵」「クリスマス・ストーリー」、、この中でより荒唐無稽なのは一見「トスカーナの贋作」や「MAD探偵」に見えて、実はこの「クリスマス・ストーリー」である。
八日目の蝉(2011日) 監督成島出、撮影藤澤順一、照明金沢正夫、美術松本知恵

80分前後で出る。

一見意欲的でありながら、典型的日本製シネコン映画の凡庸の中に埋没する。

「細部」という現象を知らない。物語の線をただそのまま辿っている。

キャメラマンの藤澤順一はどうしたのか。あのエンジェルホームの園長(余貴美子)の造形を見れば、撮る気が失せるというのは分からなくもないが。

永作が子供に乳をやろうとするシーンなど画面が猥褻性を帯びている。子供をあそこまで激しく泣かせて、にも拘わらず永作は乳房をキャメラから隠しながら乳をやろうとしている。映画を舐めている。テレがないからこうしたショットを撮れてしまう。
MAD探偵 7人の容疑者(2007香港) 80 87 監督ジョニー・トー、ワイ・カーフェイ

仮に日活の撮影所システムが今でも続いているとしたらこんなタイプの映画を撮っていたかも知れない。無国籍映画としての透明性を獲得し、違いの中に普遍性を獲得している。

この映画が今の日本人に撮れなくなったというのはつまり、肩の力を抜いて荒唐無稽の重力に耐えながら流して撮りあげてしまうたげの軽快な力に欠けているからである。

最後のアパートメントのアクションは、剥き出しになった椅子の脚の中で行われている。

ラストシーンにはどうも白けてしまう。ジョニー・トーという監督は、どこかで心理的なショットを入れないと気が済まないところがあり、活劇に徹し切ることができない。誰のピストルを誰に持たせ変えるのかというのは論理の世界であり、画面の振動からは遠ざかる。

うそとほんとうとがまったく不可解で掴めない現象は荒唐無稽だが、意図的にうそをつくのは制度的である。微妙なところだが。

パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉(2011)

30 60 監督ロブ・マーシャル

■画面を隠すか
①キャメラの無意味な動き・②クローズアップ過多・③被写界深度の浅さ・④一時間に1000ショット前後という「画面を隠す」要件のうち、④を満たし、①を満たさず、②と③を大方満たしている。

このシリーズに何かを期待するのは無理だった。「シリーズもの」に限って言えば、アメリカ映画の復興は当てはまらない。

帰ろうかと思ったが、中途からショット数を測ることに専念して何とか最後まで居ることができた。最後の45分でおおよそ860ショット。一時間で1150ショットくらいのペースで1ショット3秒ちょい、第一作よりは遅いが、スピードで隠すという趣旨から自由ではない。

■ジョニー・デップの演技
演技というより泥酔。酔いしれている。

グッズ大売出し
少女たちの羅針盤(2010) 80 80 監督長崎俊一、撮影柳島克己、俳優成海璃子、忽那汐里、森田彩華、草刈麻有

ちょっと暗くないかな、、、と思って見ていたが、社宅の廃墟で森田彩華が眠っている成海璃子にキスをして、キャメラを引いたロングショットのしっとりとした空間を見て、この光の有り方は間違っていないと確信をした。

今週もう一度見に行く予定なので、詳しいことはまた。
トゥルー・グリット(2010米) 50 75 監督コーエン兄弟俳優ジェフ・ブリッジス、ヘイリー・スタインフェルド、マット・デイモン、ジョシュ・ブローリン

アメリカ映画の「連勝記録」を止まる。凡庸でかつ面白くない。

セリフが多い。しゃべりっぱなしだ。そしてまたそのしゃべりが、「ヒズ・ガール・フライデー」(1940)のように速さによって即物的に振動するのではなく、ジェフ・ブリッジスのスローなしゃべりによって心理へと堕している。どうしてあんなカルカチュア化された人物像を思いついてしまったのか。 ジョン・ウェインの亡霊に取り憑かれたか。ジョシュ・ブローリンにしても、まるでジョニー・デップ派を形成したかのごとき鼻から抜け声のスカスカアクターズで泥酔している。最後にあの娘がアグネス・ムーアヘッドみたいになって出て来た時にはびっくりしたが、ヘイリー・スタインフェルドを支える役者が理屈っぽい。

娘が馬に乗って川を泳ぎ、対岸へと上陸した瞬間の画面を、カットを割って横から撮っている。こういうのを見ると即、席を立ちたくなる。コーエン兄弟にそもそも西部劇は無理なのだ。

ヘンリー・ハサウェイ版においては、キム・ダービーが、みずからの瞳によって大人たちの生き様を刻み付け成長するという運動が意図的に撮られている。そのためにキム・ダービーはジョン・ウェインの決闘を最後まで見届け、グレン・キャンベルの亡骸から決して目を離さず、去りゆく馬上からわざわざ振り向いた無理な状態を保ったまま主観のショットによって見つめ続けていた。コーエン兄弟はこうした映画的運動に関しては無関心なのだ。彼らがしているのは『理屈のリメイク』でしかない。

グッズ×
トスカーナの贋作(2010仏伊) 70 80 監督脚本キアロスタミ撮影ルカ・ビガッツィ俳優ジュリエット・ビノシュ、ウィリアム・シメル

キアロスタミの映画は大部分乗れるのだが、この作品は二回見たがどうしても乗れなかった。

キアロスタミは「うそつき」である。仮に場所をイランからイタリアの地方都市へと変化したところで、「うそつき」の性向が変化することはない。

「うそつき」とはドキュメンタリーとフィクションとのあいだに大きな分裂を生じさせない性向として在り、それは逆に言うなら大いなるリアリストであり、キアロスタミにとって真実はひとつ、画面である。画面が振動する限りそのショットは「真実」であり、そうでなければまやかしである。

この夫婦がそもそもほんとうの夫婦なのかそうではないのかなどといった背後の論理は画面の力を決める祭の決定打とはなり得ない。キアロスタミの映画とは、背後の事実から「真実」を窺い知ろうとする我々の
網膜に光を当て、見つめることによって「真実」をその都度探せと迫り来る振動である。

それにもかかわらずこの映画は理屈っぽい。この夫婦が、夫婦であるのか、そうでないのかという背後の事実に拘りすぎているがために、画面の力が吸い取られてしまっているのだ。噴水の前で観光客に語りかけるくだりなど、どうしようもなく理屈っぽい。

内側からの切り返しが何度も炸裂している。ただ、北野武とは違って、最初と最後に二人同時に画面の中に収めることは忘れていない。そもそも内側からの切り返しとは、映画的な「うそ」であって背後の「うそ」ではない。ふたり同時ショットもまた、映画的な「ほんとう」であって背後からやって来る「ほんとう」からは遠い。そうした点では、キアロスタミの方が、「うそ」と「ほんとう」とのバランスに関して敏感である、ということか。

キアロスタミの場合、常に「うそ」と「ほんとう」とを律儀にごちゃ混ぜにするのだが、この作品の場合、「うそ」を余りにも律儀に求めすぎたがゆえに「うそ」が画面の背後まで突き抜けてしまい、それは途端に映画的ではない「うそ」に変化してしまったのだ。
5/29
ブラック・スワン(2010米) 60 50 監督ダーレン・アロノフスキー俳優ナタリー・ポートマン

悪くて凡庸。だが、それなりに面白いという『2011年現象』の持続の上にある。途方もなく下品だが、あきれ果てるほど面白い。

賞を獲得するための要素はちゃんと散りばめられている。

ほとんどスプラッター。

照明は全然だめ。

とてもテクニカラーには見えない。

グッズなし
白いリボン(2009ドイツ他) 50 70 監督脚本ミヒャエル・ハネケ

放っておけば映画を撮れるはずなのに、わざわざ映画の外部へと逃げたがる。

ハネケの特徴として、「コード:アンノウン」の地下鉄のシーンなどのように、画面の中にある種の険悪的空気を作り出すというのがあるが、それが運動によってではなく物語によって支配されていることが、彼の外部性のひとつの特徴である。
スプリング・フィーバー(2009中、仏) 77 77 監督ロウ・イエ

役者の顔について、ありもしない既視感を感じる。

序盤よりも中盤にかけて次第に画面の感じが良くなっていく。

中国のガソリンスタンドの大きさが半端ではない。まるで石油コンビナートだ。

決して正体を掴ませないのは、そもそも正体なるものを撮ろうとはしていないからだ。探偵が探っていた男とバーから逃げてそのまま二人で泊まって、、という流れを見ても、明らかに①→②→③→④という物語的な流れによっては撮られていない。

男二人と女一人が車に乗って旅に出た時、車中の三人を一度に横並びで捉えたショットが現れた瞬間に画面が揺れた。これをトリュフォーというかルビッチというかは別にして、語らないことによって語ることのできる稀有な画面だ。

ただ、ひとつの興味深い出来事としてあるのは、作家が自国の検閲のコードを超えてしまった時、その「超えること」という現象が、ただそのことにおいてだけでは必ずしも映画の力には結びつかないという事実である。
まほろ駅前多田便利軒(2011日) 78 87 監督脚本大森立嗣、撮影大塚亮、照明木村明生、俳優瑛太、松田龍平、

照明が抜群に進化している。あらゆるショットにおける光源が楽しい。例えば序盤、二人で夜の路地を歩いてくる後退移動のトラッキングでは、夜の街燈やら家の中からの光やら、そういった光源が予め計算されたうえで撮られている、という画面をそれとなく提示できている。まるでペドロ・コスタだ。

米軍基地のフェンスの長回しの終盤に、急に雲が地面を覆って暗くなる、という、まるでホークスの「赤い河」のようなとんでもない出来事があるのだが、偶然なのか。

意地になってタバコを吸っているという感じだ。

『ゲルマニウムの夜』を包んでいたインテリっぽさが抜けている。通常、ああしたインテリ臭い映画を一度撮って左翼に受けてしまうと、そうした癖は修正できないというのが紛れもない映画史であった筈である。にも拘わらず、ここでは見事に活劇としての「B」を撮ってしまっている。

岸辺一徳が瑛太に何を怒っているのかわからない。日本人を何の葛藤もなくコロンビア人にしてしまえる図々しさは、60年代日活のブログラムピクチャーを彩る日本製チャイナの図々しさそのものだ。バスの間引き運転を見張りなさいという仕事のとてつもないバカバカしさは、この映画が過程によって撮られていることの紛れもない証しである。

松田龍平がいい顔をしている。

終盤、瑛太がある種の告白をする長いシーンがあるのだが、私ならこれは撮らない。
5/13更新
愛する人(2009アメリカ、スペイン 80 60 監督脚本ロドリゴ・ガルシア俳優アネット・ベニング、ナオミ・ワッツ、

前作『パッセンジャーズ』は豊かな光に包まれていたが、キャメラマンが変わったせいか、今作での照明は残念なレベルに留まっている。

『彼女の恋からわかること』(2002)はまるで乗れなかったが、ロドリゴ・ガルシアという監督は、ノーベル賞作家を父に持つように、物語を語り始めるとやたらと力を発揮する。『愛する人』にしても『パッセンジャーズ』にしても、ほぼ完璧な物語映画であるが、物語映画を撮れてしまうことの困難性からするならば、ただ事ではない。

DVDで『パッセンジャーズ』を見てベストテンに入れた。是非多くの人々に見て頂きたい。

アネット・ベニングが笑うと画面が揺れる。そんな風に女優を撮れてしまう。

物語映画を撮る、ということは、実は物語を極力語り占めないことでもある。オープニングの若者たちのラブシーンが、アネット・ベニングの若かりし時の映像であることの説明は直接的には皆無であるし、ナオミ・ワッツがアネット・ベニングの娘であるという事実にしても直接的には何ら語られていない。デヴィッド・モースがアネット・ベニングの昔の恋人であるという事実についてもまた、画面を見ることによってのみ語られているにすぎない。終盤、アネット・ベニングが自分の家の庭から歩いて行って、どんどん右へ右へと歩いて行くと、そこに自分の孫を養子にした女の家がある、という流れにしても、その前にその女に関する手紙を読んだアネット・ベニングが思わず吹き出してしまったという映像と加算されながら、孫を養子にした女が実は家の近所に住んでいた、という偶然の事実が画面の連動に依って沸き起こるように撮られている。画面によって想像させ、見ることによって語られる映画、それが物語映画なのだ。

照明が良ければ間違いなくベストテン入り。
ヘヴンズストーリー(2010日) 40 70 監督瀬々敬久

20分で『だめだ、、』と感じた瞬間の絶望感。あと4時間ある、という。

この映画を撮った人々がどうというよりも、何故こうした映画が一定のインテリ層に受けるのかという批評の社会学に惹かれる。

最初のフリスビーのロングショットが最高である。鉱山の廃墟ビルの質感も凄いが、素材の凄さ以上のものとしては撮られていない。

一見荒唐無稽に人間のサガを絞り出しているように見えながら、実は見事に辻褄が合ってしまっている。脚本が、パズルのように組み合わされて書かれている。そうした要素が、この作品をして「グランドホテル」であることを拒否させる。辻褄が先にあるので画面が解放されず、官僚的に読まれてしまう。だから頭の固いインテリに受ける。

キャメラを揺らすにしても、ズームにしても、安直な技術でしか使われていない。
ガリバー旅行記(2010米) 58 60 監督ロブ・レターマン

3Dである必然性がまったくどこにもない不思議さに驚く。これで3D料金を取るというのはまったき詐欺だ。

ジャック・ブラックという俳優はどうにもニガテだ。

といいつつもそれなりには楽しめてしまう。2Dとしては。

グッズなし
エンジェル ウォーズ(2011アメリカ・カナダ) 68 83 監督脚本原案製作ザック・スナイダー撮影ラリー・フォン俳優エミリー・ブラウニング

アメリカ映画の快進撃は留まるところを知らない。重要なのは、凡庸であってもそれなりに突っ走ってしまう力である。アメリカ映画のレベルは、最悪の時期=2002年の「ロードオブザリング」(ニュージーランド合作)の前後から飛躍的に回復してきている。まず注目すべきはセリフの少なさ。明らかに台詞が少ない。言葉よりも運動で見せながら物語を紡いでいく。その運動にしても「ロードオブザリング」のように凡庸極まりないクローズアップによって画面を「隠すこと」の趣旨ではなく「見せること」によって貫かれている。といっても物語をしっかりと語り占めてはおらず、余りにも荒削りで凡庸さは否めない。だが、凡庸な映画がそれなりに楽しめてしまうという事実こそが脅威である。日本製シネコン映画の、5分と瞳に堪えない悪質な凡庸さとは質が違う。

画面の塩梅が非常によろしい。最初のダンスが終わった後の、右に大鏡をしたためたローアングルは、正面の壁と鏡の空間がとてつもない雄大さとして突如出現してくる。最後のバス停のショットにしても、縦と横に並んだ二台のバスの醸し出す質感は信じ難い。どうやればあんなショットが撮れるのか。

紛れもなく凡庸だが、その凡庸さを逆に讃えてみたくもなる。

エミリー・ブラウニングの、オブジェクト・レベルにおける『素晴らしいダンスシーン』を一切見せないでおける、という根性を買いたい。

グッズ◎
ザ・ライト -エクソシストの真実-(2011米) 70 77 監督ミカエル・ハフストローム撮影ベン・デイヴィス

アメリカ映画、どんどん面白くなる。これ、常識。画面に『黒』出る。これ、いいこと。

セリフが少ない。

凡庸だが面白い。サプライズで「ふんぎゃ-!」といきなり脅かして来て腹が立つが、それでも面白い。

この作品についてもまた、物語を語ること、における、「愛する人」との共通性が垣間見られる。ズドン、と論理で言語的に語るのではなく、画面でもって少しずつ語ってゆく。語りすぎず、我慢しながら画面で語る。そのあり方は凡庸ではあるものの、映画としては成り立っている。

グッズなし
嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん(2010日) 監督瀬田なつき

観客を座席につなぎおけておくための最初の20分の重要さをまったく分かっていない。
4/25更新
街のこども(2010日) 70 70 監督井上剛、脚本渡辺あや、俳優佐藤絵梨子、森山未來

■手を振ること
佐藤江梨子の叔父にあたる男性は、何となく本当の被災者が演じているのではないか、そう感じさせる複数性の画面が豊かさを見出している。アパートのベランダから顔を出したその叔父さんに二人が手を振るシーンがあるが、まず森山未來が手を振って、それを咎めるような形で佐藤絵梨子が続いて手を振る、という運動の流れが画面を揺らしている。森山未來の「手を振る」という運動が、佐藤江梨子の「手を振る」という運動を「不可抗力」的に起動させているのだ。そうすることで、本来感傷的・心理的になる危険のある「佐藤江梨子が叔父に手を振ること」という運動が心理から解き放たれ、運動として露呈する。森山未來の運動というワン・クッションが挟まれることによって「倫理」が生ずるのだ。

■歩き出すこと
二人が歩いて佐藤江梨子の家へ歩きはじめるきっかけにしても、まず喧嘩別れしたあと、ロッカーの鍵がないことを思い出して仕方なく戻ったところで再会し、なんだかんだとだべっている内に歩き出してしまうという流れである。ここでもまた「一緒に被災者の霊を慰めに行こうよ!」「そうだ行こう!」などというバカバカしい心理的な動機は一切排除され、ひたすら運動がそのまま撮られているのだ。

「佐藤江梨子が手を振ること」、「二人が歩き出すこと」という、決定的な運動、だが撮りようによっては感傷的になり映画を壊しかねない危険な運動の起点に物語的な理由が存在していない。これはひとつの驚きである。
漫才ギャング(2010日) 67 75 監督原作脚本品川ヒロシ

活劇を撮っている筈が活劇にならない。しばらくすると、ちゃんとテレビのコードに収まってしまう。そこにあるのは感動と安心のオコチャマモードであり、北野武が持っているような、テレビも芸能界も突き抜けた怖さの次元ではない。

ひとつひとつのショットをカッティング・イン・アクションで丁寧に撮っていて、そうしたことが作品の中に時折「ずれ」を生じさせ、映画を最後まで推し進めてはいる。

「ドロップ」の批評でも書いたが、この監督さんは「不良が実は良い人である」という部分に大きな感傷を感じているらしい。問題なのは、人間を「良し悪し」でしか捉えることのできない狭量である。その中間を彷徨う不可解な状態をこの監督は知らない。だからして、暴力を撮ろうが、ゲロを撮ろうが、セックスを撮ろうが、結局のところ、「善か悪か」という啓蒙主義的二元論の範疇の中へと人間が回収されてしまい、気が付くと「シネコン映画」=制度を撮っている自分がそこにいるという事態に陥る。まず最初に「わく」を決めてしまうから、そこからはみ出てゆく人間の躍動が阻害される。善悪二元論の典型のように見られていたアメリカ西部劇の多くの主人公たちが実は善悪の境界を飛び越えていたことを知らない。
アンチ・クライスト(2009デンマーク他) 監督ラース・フォン・トリアー

絞りを調整して画面の明暗を微妙に変化させる。見ている者の潜在意識へと訴えるこういう手法は、端的に反倫理的だ。

マイナスの積み重ねによる差異によって結果としての量的で安易な画面を作ることに明け暮れている。
GANTZ(2010) 40 50 監督佐藤信介

ガレージのシーン辺りまでは悪くはなかったが、どう撮っても、どうあっても決して70点の映画は撮れないという日本製シネコン映画のリミッターが起動している。

オコチャマ向け。
英国王のスピーチ(2010英豪) 監督トム・フーパー俳優クレア・ブルーム

イギリス映画はつまらない。

「文学」に従属し、刻々と画面が思想の内容に侵食されてゆく凡庸な時間の流れに瞳が徒労する。

役者の自己満足はアカデミーの満足となる。

あまりにつまらないイギリス映画にアメリカ人の民族的同情票が集まったのだろう。
4/4更新
ツーリスト(2010米仏) 60 70 監督脚本フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク俳優アンジェリーナ・ジョリー、ジョニー・デップ

最初の45分は、10年に一本の感じで突き進んでいったが、ベニスのホテルについて、翌朝、取り残されたデッブが煉瓦の屋根の上を逃走し始めたあたりからおかしくなった。それまでの④→③→②→①が①→②→③→④へと急転回したのである。

■ジョニー・デップの演技
マーロン・ブランド譲りの鼻から抜け声のコギャルボイスは何とかならないか。「カビリアン」シリーズあたりから、ニコルソンを意識したようなアクターズ・スタジオ張りの鼻抜け演技を始めたので懸念していたが、もう治らないだろう。一流の監督ももう彼を使わないだろう。映画と演技がまったくそぐわず、アンジェリーナ・ジョリーのクールな活動演技に付いていけない。水でもぶっかけてやったほうがよい。

■脚本
四人が脚本に関わった割には練られていない。一堂に会して書いていないのではないか。

監視モニター→アンジェリーナ・ジョリーのお尻→カフェで手紙を焼く→コンピューターで手紙再生→地下鉄→列車の中での出会い→ベニスでモーターボートのアンジェリーナ・ジョリー現る→ホテルへ→ジョニー・デップ屋根を逃げる、、、という流れまでは、デジタル対アナログ、という構図もはっきりしていてすぐに思い出すことができるのだが、それ以降が思い出せない。おそらく、ここまではマクガフィン的に、或いは断片的に撮られているが、これ以降は物語の網の目に画面が絡め取られる度合いが増したということだろう。運動の流れの中で発生していた物語が、運動を引っ張り始める。

それでも最初の45分は最高だった。やっぱりアメリカ映画は面白い。

グッズ×
「ブロンド少女は過激に美しく」(2009) 78 75 監督マノエル・ド・オリヴェイラ撮影サビーヌ・ランスラン俳優リカルド・トレパ、シオノール・シルヴェイラカタリナ・ヴァレンシュタイン(ブロンド少女)、ディオゴ・ドリア(叔父)、ルイス・ミゲル・シントラ

「コロンブス 永遠の航海」共々、今一つ乗れずに、見間違えたかな、、と、もう一度ずつ見直してみたが、乗り切れない。「クレーヴの奥方」(1999)「家路」(2001)そして「永遠(とわ)の語らい」(2003)の頃の光と比べて、少し照明の力が落ちている。例えばリカルド・トレバが文学サークルで友人を見つけて話すシーンなどの照明など、どうにも乗っていけない。窓辺の少女のショットは最高だが、、、

列車の中の二人は、明らかにボードか何かに書かれた台詞を読んでいて、オリベイラとしても、そう見られてもいいように撮っているようなところがある。イーストウッド「チェンジリング」(2008)のラストシーンでも、アンジェリーナ・ジョリーは書かれた台詞を読んでいるように見えたのだが、そういうことにはまったく頓着しないらしい。トランプゲームで男が少女にチップを配るシーンにしても、あれは「配る」というよりも「投げつけている」としか見えないのであるが、別にそれでいいという感じで撮っていて、まったく頓着していない。こういうのを「若さ」というのだろう。

こうした「頓着しないこと」の延長として、アベイラブライトであるとか自然光であるとか、肩の力の抜けた光を求めているようにも見えるのだが、オリヴェイラタイプの映画は、照明の力で映画を持続させてゆくようなところが間々あり、それが弱くなってくるとやや苦しく見える。

最初の列車の中で、車掌が切符の点検をするシーンを延々と1ショットで撮り続けている。60分の映画でこれができてしまう。というよりも、わざとやっている、という感じてもある。基本的にオリベイラという人は、いたずら好きというのか、人を小バカにして笑っているようなところがあり、「過去と現在 昔の恋、今の恋」(1972)0という初期の素晴らしい作品を見ても、純然たるコメディから入っている。この「ブロンド少女は過激に美しく」は紛うことなきコメディであり、ラストシーンの線路に聞こえてくる鳥のさえずりひとつにしても、笑わずにはいられないおかしさに包まれている。物語的に見たときに、どこまで本気なのか見えないような深さがある。例えば9/11を意識して撮られた「永遠(とわ)の語らい」のラストシーンにおいて私は、以前の封切館で、ヒッチコックが「サボタージュ」で犯した「ミス」(「映画術」96頁・サスペンスを盛り上げておきながらサプライズで観客を失望させてしまったこと))を敢えて実行したようなところがあると書いたが、この作品のラストシーンにしても、少女が足を大きく広げ、まるで「晩春」(1949)の笠知衆のように首を垂れての終わり方というのは、9.11以降のドラマツルギーとしてしか許されないような感がある。

ルイス・ミゲル・シントラという役者(パーティで詩の朗読をした人)はいつも、声から入って来るようなところがある。この人は明らかに「声」によってオリベイラ組の一員なのだ。

オリベイラにとっての「窓」とは、成瀬にとっての「縁側」のようなもので、そこからコミュニケーションが生まれてゆく場所としてある。
コロンブス 永遠の航海(2007) 78 80 監督マノエル・ド・オリヴェイラ撮影サビーヌ・ランスラン

予算が少ない時に、それを隠そうとするタイプと、開き直るタイプがある。オリベイラは後者である。

同じ自伝的作品でも、レナート・ベルタがキャメラを回した傑作「世界の始まりへの旅」(1997)と見比べると、どうしても光の点で見劣りがしてしまう。「ブロンド少女は過激に美しく」(2009)共々二度ずつ見たが、あの素晴らしい「家路」(2001)の頃と比べて、キャメラマン、サビーヌ・ランスランとの相性が悪くなって来ているようにも見える。レナート・ベルタが素晴らしすぎるというのは確かにあるのだが。

「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」(1942)のようにして、青年期と老年期とを、同一の人物のメーキャップの調整によって見せてしまうというのがハリウッドの方法だが、それをまったく別の役者によって頓着せずにやり遂げてしまうこの作品の方法は、老いる、という出来事を強烈なエモーションによって突き付けてくる。見ている私の瞳は、「現在の老夫婦」の中に、あの「過去の若夫婦」の残影を見ようと彷徨い続ける、その彷徨い見つめる運動それ自体が、歴史の振動となって私の瞳を撃ち抜くのだ。船の中での老夫婦のあの会話のシーンは、「見つめること」によってのみ露呈するのである。
恋とニュースの作り方(2010米) 60 50 監督ロジャー・ミッシェル俳優レイチェル・マクアダムス、ハリソン・フォード、ダイアン・キートン

『スター』であるハリソン・フォードが、チンチクリンのレイチェル・マクアダムスの脇に回る、などとという発想が根本的に間違っている。ハリソン・フォードは未だ主役として使われるべき。レベルが違うのだから。

それにしても、レイチェル・マクアダムスというのは学級崩壊みたいな女優だ。落ち着きがない。恋人のパトリック・ウィルソンもいるんだかいないんだかわからない。みんな『スター』に食われている。それでもやっぱりアメリカ映画は楽しい。

グッズ×
3/16更新
海炭市叙景(2010日) 60 60 監督熊切和嘉

色々撮られているようで多くのものは撮られてはいない。

一見「過程=中」が撮られているように見えながら、多くは「結果=はしっこ」が撮られている。

■展望台(はしっこ)とふもと(はしっこ)は撮られていても、山道の運動(なか)が撮られていない。
■加瀬亮の登場シーンで、ボンベをトラックから降ろすシーン(はしっこ)とボンベを家に備え付けるシーン(はしっこ)は撮られていても、ボンベを転がして家まで運ぶシーン(なか)が撮られていない。
■「初日の出」という「外部」へと寄りかかった「はしっこ」を、アップでスボンと撮ってしまう。

こういう性向というのは、基本的には治らない。

「ノン子36歳(家事手伝い)」ラストシーンで、「ニワトリを捕まえる」という、「はしっこ」を撮ってしまっていたように。

暗い部分の光は面白いが、明るくなると見るも無残にドテっと撮ってしまう。

終盤のバスの中の色彩感覚などは抜群だ。ただ、この「はしっこの性向」だけは直していかないと。難しいところだが。
森崎書店の人々(2010日) 60 70 監督脚本日向朝子、美術松本知恵、俳優菊池亜希子、内藤剛志

ショットが長い。あと30分削れる。回想の縁側で内藤剛志が泣いているシーンはまったく不要だ。撮るならあとワンクッションずらさないと。田中麗奈と奥村知史の恋路の行方を少しでも描くべき。

こういう作品がシネコンに乗るようになれば日本映画も安泰だが、乗らないだろう。基本的には。

あの古本屋は実際にはなく、美術の松本知恵などが倉庫を借りて作ったらしいが、よくあんな場所を探してきたものだ。黒沢清「トウキョウソナタ」(2008)のあの窮屈な東京の家のように、路地に負けているところが凄くいい。今後こういう家屋をして「路地負け」と名付けよう。

本のページをめくる音とか、録音が菊池信之なのだから、もっと「本の音」というものを大胆に要求しても良かったのではないか。本をしみじみと撫で回すところなどは非常に良いのだし、そのフェティッシュ感を。

衣装の感じが良く、メーキャップが菊池亜希子顔に当たる光をしっとりと反射させている。長回しの終わりの頃に、書店の汚れた窓の外に田中麗奈がひょいと顔を出したりしているのは溝口的だ。
酔いがさめたら、うちに帰ろう(2010、日) 80 60 監督脚本東陽一、俳優浅野忠信、永作博美、高田聖子(女医)、柊瑠美(若い看護婦)

年季が入っている。頓着しないことができてしまう。

善と悪の中間を彷徨える稀有な役者である浅野忠信を、どうしても「善」で使いたがる風潮がここのところ蔓延していたが、やっとこういう映画に巡り合えた。病院の食卓に、自分だけカレーライスが出ないことで狂気に染まってゆく浅野忠信。突如担当医に怒鳴る浅野忠信。その直後に敬語に戻る浅野忠信。こうでなければ。

終盤、浅野忠信がみんなの前で自己を語るシーンで、若い看護婦の柊瑠美が泣くシーンが少しだけ入ってくるのだが、あれはどうやって撮ったのだろう。泣いてください、と言われて泣いたような感じではなかったのだが。

女医の高田聖子、さも劇団系の雰囲気が見事に女医として収まっている。

オープニングの居酒屋→街を歩いて浅野忠信の家へ向かう永作博美へと流れるショットが、すべて運動の過程としての日常行動として撮られている。いつものこと、という運動。誰も取り乱さず、平静の運動の中で事が進んでゆくことで、逆にアルコール中毒の重大さが際立っている。

ラストシーンの浜辺で、砂浜の丘を「線」に使って海へと人々が消えてゆくシーンがあり、ここでクレーン上昇すれば小津だな、、、と思って見ていると(「麦秋」)、直後にクリーン上昇する。という感覚。

照明があと少し良ければベストテン入り。
パラノーマル・アクティビティ2(2010米) 40 50 監督トッド・ウィリアムズ

最近、このような「ほんとうです」という演技が良く見られるようになったが、その多くはこの作品の人々のように、ひたすらニヤケまくるという現象となって露出する傾向にある。「笑い」というのはある意味では「ほんとうらしく」見えるのであり、役者としても演じやすいのだろう。ひたすらニヤケ続けている。

監視カメラという超越したメタ・ポジションを与えられているために、ベタである画面を失うという傾向に陥っている。

アクターズ・スタジオ系の、話している途中に相手の目から目を逸らすという、この「目を逸らす」という演技は結局のところ、メタ・レベルへの心地よき逃避ではないのか。目を逸らし(メタ)→目を合わせる(ベタ)→目を逸らし(メタ)→目を合わせる(ベタ)。そうした点からすれば「目を逸らす」という演技は、ベタ(見つめ続けること)に耐えられなくなった現代の人間の精神的な逃避ということになり、極めてポストモダン的な在り方といえる。成瀬の「窃視」とまでは言わないが、アメリカ人もまた、相手の目を見つめて話すことができなくなったのだ。そうした点からしてイーストウッド「ヒア アフター」(2010)のラストシーンの「見つめ合い」というのは、ある意味ではモダン的なのかも知れない。

グッズなし。
ザ・タウン(2010) 80 74 監督出演ベン・アフレック俳優レベッカ・ホール、ピート・ポスルスウェイト

イーストウッドの「チェンジリング」(2008)を髣髴させる「ゴーン・ベイビー・ゴーン」という前作は物語映画として悪くないので見て損はないと思うが、そこではボストンというアフレックの生まれ故郷であるタウンに注目し、今回の「ザ・タウン」もまたボストンのチャールズタウンが舞台として撮られている。前作は探偵、今作は銀行強盗と、ノワール的な雰囲気を好む傾向があり、音楽のセンスも悪くない。前作ではケイシー・アフレックの相棒としてミシェル・モナハンを巧くに使っていたが、今回もまた何ということのないレベッカ・ホールの味を少しずつ惹き立てている。ボスのピート・ポスルスウェイトが花屋、というのがなんとも。

こういう物語映画を撮れてしまうベン・アフレックというのは何者なのか。脚本の書き方をイーストウッドに教われば凄いことになるだろう。

最近のアメリカ映画は加速的に面白くなってきている。

グッズなし
ルンバ!(2008仏、ベルギー) 75 80 監督ドミニク・アベル、フィオナ・ゴードン、クレール・ドルノワ

映画的教養が潜在的に炸裂している。チャップリン、キートン、というのは確かにそうだが、どちらかと言えばヨーロッパ経由でのチャップリン、キートンという感じで、カウリスマキ→トリュフォーを経由して→タチ→ヴィゴ→ルノワール、そしてチャップリンという流れ。ボードヴィル、軽業系という感じなので、踊るかな、、と思って見ていると踊り出すし、歌うかな、と思って見ていると歌いだし、飛び跳ねるかな、と思っていると飛び跳ねはじめる。海に実際に飛び込んだり、結構危ないことをやっているが、あれは監督が役者も兼ねているからこそできるのだろう。極めてサイレント時代的な危険なアクションはキートン的である。
「アイスバーグ」の、あの夜の船と空はどうやって撮ったのか。スクリーン・プロセスはそれなりに使っていると思われるが、しかしどうにも理解できない凄いショットが数多くある。船があって、降りて行って船室なんかが出て来ると、どうしてもヴィゴ「アタラント号」を想起してしまうが、そう思って見ていると、続いて見た「ルンバ!」では、教師が生徒たちを連れ出して課外授業に出て行って、バーでみんなでビールを飲むなどという、どう見ても「操行ゼロ」を想起せざるを得ないようなシーンが出てくる。子供たちの革命、という感覚。そういう記憶をこの映画の監督たちは持っている。ラストシーンは二人で背中を向けて海を見ている、なんていうのはどう見ても小津、それもカウリスマキ経由の小津だ。

これは物語映画ではない。しかし、もう少し映画的な躍動を志向して欲しい。
アイスバーグ!(2005仏、ベルギー) 70 80 監督ドミニク・アベル、フィオナ・ゴードン、クレール・ドルノワ

批評は「ルンバ!」にて↑
ウォール・ストリート(2010米) 74 80 監督オリヴァー・ストーン脚本アラン・ローブ俳優マイケル・ダグラス、シャイア・ラブーフ、キャリー・マリガン、
ジョシュ・ブローリン

最近では一番気持ちよさそうに撮っている。

これまた物語映画。

イーライ・ウォラック系のギャグも笑えるが、エネルギー工場の貧血気味の科学者が何故か笑える。だからこそあの学者は貧血で倒れなくてはならないのだが。

脚本に不自由しているようにも見えるが、運動はしている。

グッズなし
玄牝・げんぴん(2010日)
監督河瀬直美

人が泣くとキャメラを寄る、という性向は治らない。

個性はあるが、個性しかない、とも。
犬となたの物語・いぬのえいが(2010日) 第五話、長崎俊一の「犬の名前」から急に映画になる。 特に後半、大森南朋と松島奈々子が出て来たあたりから急に画面がローキイになって一気に加速し、それまでの照明とは全然違うレベルの光にキャメラマンは誰だろうと思いながら(柳島克己だった)、この第五話の余力がそのまま第六話まで引っ張ってしまう。
RED/レッド(2010) 74 70 監督ロベルト・シュベンケ俳優ブルース・ウィルス、メアリー・ルイーズ・パーカー、モーガン・フリーマン、ジョン・マルコビッチ、ブライアン・コックス

大好きな「フライト・プラン」の監督が、前作「きみがぼくを見つけた日」(2009)の汚名を晴らす。凡庸だが面白く、ありきたりだが秀でている。限りなくダサく、途方もなく新しい。そもそもロシアのスパイが協力したり、そこにかつてのCIAの殺し屋が絡んで来たり(ヘレン・ミレン)という、映画の記憶を辿るるだけで映画を撮ってしまっている。

これまた物語映画だが、アメリカ映画は増々面白い。

リチャード・ドレイファスが一人で「演技」している。まだ治らないのだなと。

アーネスト・ボーグナインが突然出て来たのにはびっくりしたが、声質からして完全にフィットしている。どうしてあんなに元気なのだ?

グッズなし
フェアウェル/さらば、哀しみののスパイ(2009仏) 70 65 監督脚本クリスチャン・カリオン俳優エミール・クストリッツァ、ギヨーム・カネ

これまた物語映画だが、エミール・クストリッツァがやけに決まっている。ボー・スベンスンかと思ったが。

ヨーロッパ映画までも良くなって来ているのか、、、
グリーン・ホーネット(2010米)
こういう面白そうな題材を、どうやったらこうつまらなく撮れてしまうのか、そのコツを教わりたい。ヒーローものの撮り方をアメリカ人は忘れたのか。アメリカ映画の躍進の中、一人蚊帳の外だ。

フランス人か、、、

グッズ×
マチェーテ(2010米) 77 80 監督ロバート・ロドリゲス、イーサン・マニキス俳優ダニー・トレホ、ロバート・デ・ニーロ、ジェシカ・アルバ、ミシェル・ロドリゲス、スティーヴン・セガール、ドン・ジョンソン

オネーチャンの趣味が良い。活劇としてのバカバカしさをいかんなく発揮し、理由はひたすらあとから付けられてゆく。

余り良いとも見えないデニーロにも「有刺鉄線にもたれる」という映画的な見せ場をきっちりと作っている。実にさり気ないシーンにも、「映画的」という画面を作らずにはいられない、それが「B」の性向だ。

「ヤバい経済学」によっても、警官を減らすと治安が悪くなる、というのはほんとうらしい。警官減らしに忙しいアメリカには、「キック・アス」同様、これから増々自警団映画が増えてゆくだろう。

警備員がやられるシーンは笑ったが、ラテン系の暑苦しさがいい。

ジェシカ・アルバはこう使え!、という。
3/2更新
ソーシャル・ネットワーク(2010米) 監督フィンチャー

50分で出る。

見事に①→②→③→④の順で撮っている。物語の誘惑に負け、「文学」に敗北している。

官僚的。

グッズ×
キック・アス(2010米英) 68 85 監督脚本マシュー・ヴォーン脚本ジェーン・ゴールドマン撮影ベン・デイヴィス

3Dみたいな画面を撮っているのでキャメラマンをチェック。ドラム缶の傍にたむろしている男たちに行方不明の猫の写真を見せる時のショット等、とてつもなく凄いのがある。だが、その場限りで終わってしまう。監督よりキャメラマンが優秀ではないかと思わせてはならない。

基本的に凡庸=Aだが、アクションだけは「活劇=B」になる。突然「B」になって、またすぐに「A」に舞い戻る。パラノととスキゾが棲み分けている。イーストウッドのように「A」に見せかけて実は「B」である、という芸当はない。

テレビ「サザエさん」的な無作者性の中でのアメコミ的商品としての均質化を免れていない。

タランティーノとその周辺は知っているが「それ以前」を知らない。

重傷を負ったあと車に轢かれる時のサプライズショット。あれをやるのは三流と相場が決まっている。
アンストッパブル(2010) 80 85 監督トニー・スコット脚本マーク・ボンバック俳優デンゼル・ワシントン、クリス・パイン、ロザリオ・ドーソン

99分という時間にトニー・スコットと来れば、10万円でも見に行く(どの道1000円で見られる割引券持ってるから)

それにしても、よくここまでベタを撮ってしまえるなと。

本来の「B」的な密室感覚から、より今風の開け放たれた「B」へと転換している。ここ数作品、「見られていることを知らない者」を「見つめ続けること」という「盗み見」のテーマがはっきりと露呈している。

独特の「黒」が出ている。ブルーがかった「黒」。最近のイーストウッドとか、トニー・スコットとかは、シネコンで予告編がかかった瞬間にその画面の色合いで彼らの映画だと分かる。

キャメラが人物の周囲を回転したあと、次のショットで静止した他の人物のショットが入ってくる、というのが何ともダサい。序盤、線路脇で携帯で電話をしているクリス・パインを、列車のバックミラーの中でデンゼル・ワシントンが確認した後、すぐ次にクリス・パインの近景のショットへ移行する、というのもまたダサい。トニー・スコットという人は、1986年に撮った「トップガン」(1986)を既に1ショット3.6秒、一時間1000ショットの高速で撮っている人で、それはエイゼンシュテイン的な高速度とはちょっと違った現代的なスピード映画の走りのような存在であり、いわば「現代のサガ」を意識的にか無意識的にか背負って撮っているようなところが見受けられる。逆らわずに逆らってみせる。今の日本の映画作家に足りものは、そうしたことかも知れない。映画を消費する「ふり」をするような無頓着さと繊細さとの弛まぬ葛藤。それを言い始めるとおそらくホークスを書かなくてはならなくなるだろう。ワイルダーではなく。

グッズなし。踏切でワゴンをブッ飛ばしている電車のミニチュアを売って欲しかった。
ゲゲゲの女房(2010日) 85 87 監督脚本鈴木卓爾、脚本大石三知子、キャメラたむらまさき、録音菊池信之、照明平井元、美術古積弘二、音楽鈴木慶一、衣装宮本まさ江、原作武良布枝、俳優吹石一恵、宮藤官九郎

批評書く予定。

三回見て、今はちょっと時間を置いて冷やしているところ。

宮藤官九郎は晴れて映画史に名を残した。めでたし、めでたし。
超強台風(2008中国) 62 55 監督フォン・シャオニン

94分のスペクタクル映画と聞けば見に行かないわけにはいくまい、というので見に行く。
「グランド・ホテル」(1932)形式、それもアーウィン・アレン(製作者)を経た俗流グランド・ホテルである。手作りのミニチュアの感覚は日本制のSFでもあるのだが。

中国故に強い「検閲」がかかってくるのだから、映画を撮る方としても色々と考えるはず。特にこの映画の精度の高いミニチュアの重量感、質感を見ていると、相当「好き」なのだろうという感じが見えてきて細部はそれなりに豊富である。心理的な部分は94という数字の中に消えてなくなり、ひたすら活劇として進行している。制約に包まれているからこそ解放される。日本製シネコン映画の「だらしなさ」と比較してみると、日本の場合、もちろん「検閲」というコードはかかっている。だがその「コード」が、ちっとも「コード」として作り手を脅かしてはいない。「武士の家計簿」などは、「検閲」による制約の香りが皆無である。無邪気に、晴れがましく撮っている。そもそも「コード」という境界線をひたすら無視してさえいる。まるで「ユートピア」に住んでいる人間が撮ったかのようだ。まだ山崎貴「SPACE BATTLESHIP ヤマト(2010)」の場合、ある船員がタバコを吸っていたのを見て多少安心をしたが、これは「コード」に対する一つの抵抗である。ヘイズコード期に撮られたハリウッドのスクリューボールコメディを見ていると、すぐに「コード」にちょっかいを出してくる。その境界線上を綱渡りして嘲笑っているような画面が必ずや存在している。ところが日本製シネコン映画はひたすら「コード」に媚を売る。どれもこれもが「国家の犬」のような腑抜けた映画ばかりだ。百歩譲って官僚ならそれで良いのかも知れない。だが映画人というのは官僚でいいのか。そうした点からしてこの「超強台風」は、凡庸ではあるものの「コード」に対する映画の力が働いている。
乱暴と待機(2010日) 監督冨永昌敬

中途で出て外の空気を吸う。
冬の小鳥(2009韓、仏) 73 80 監督脚本ウニー・ルコント撮影キム・ヒョンソク少女キム・セロン

実に丁寧に撮っている。手作りの麗しき香り。子役の演技その他一見心理的であり、涙とかおしっことか、子供の腕からからほんとうに採血をしたりとか、「社会性=ほんとうらしさ」をインテリへ押し出した嫌味な作品になるのではないかと思って見ていたのだが、そうではない。今、目の前にいる子供そのものを見つめることで、演技や物語とは違った何かが露呈する、そういう期待を込めてフィルムを回している。娘たちが孤児院を出るシーンは、出るまでの心理的描写を殆ど撮らず、ひたすら「出ること」の運動に賭けて撮っている。仮にそれが「物語」にならずとも、画面の中にはちゃんと人間が映し出されている。

キャメラマンのセンスが良いので画面が常に「映画」を持続している。

韓国は血縁社会であるから「養子」ということをしない。従って子供たちを引き取りに来るのは決まって外国人である、という過酷さが画面を揺らす、、とは言えない。それはインテリの「読み」である。
トロン:レガシー(2010米) 監督ジョセフ・コシンスキー

中途で出る。

脚本家がゲームしか知らない。丁寧に撮っているが、乏しさはどうにもならない。

グッズあり。必然的にグッズを売っている。面白いもので。
バーレスク(2010米) 76 84 監督脚本スティーヴ・アンティン撮影ボジャン・バゼリ俳優シェール、クリスティーナ・アギレラ、カム・ジガンデイ、スタンリー・トゥッチ

アメリカ映画は少し持ち直してきたか。運動を促進させるところの力が掛かっている限りにおいて、これは「映画」である。カッティング・イン・アクションのリズムなど一見NINE」(2009)と似ているように見えてしまうが、質的に違う。

もう少しずつフレームのサイズを大きくして撮っていれば。

キャメラの揺らしも鼻につく。ロケーションの瑞々しさが足りない。クリスティーナ・アギレラとカムメジガンディの関係がちゃんと描かれていない。などなど。

さて、「たまてばこ」でちょっと呟いて見せたのは、ジェームズ・マンゴールドの「ナイト&デイ」(2010)のところで書いた『「良い歌」というものを映画は果たして撮れるのか』、という話にかかってくる。私はそこでこう書いた。

『「素晴らしいとされる歌」を、果たして映画は撮ることができるのか。映画では、周囲の者たちがライダー(ウィノナ・ライダー)の歌を聴いて恍惚とする、という演出がなされている。「ニューヨークの恋人」と同じだが、私はこうしたショットは撮るべきではないと思っている。否、これは「撮れない」筈のショットなのだ。仮に撮るのなら、逆から撮るべきである。』

この作品の場合、中盤、ライバルの踊り子の意地悪で、舞台の中途でアフレコの音声が消えてしまったシーンである。ここでクリスティーナ・アギレラが歌いだすと、聞いている者たちに切り返され、彼らが次第と恍惚とし始めるというシーンである。つまりこれは、アギレラの歌が「うまい!」という画面の連なりなのだ。だか果たしてそもそも「この歌は上手な歌である」というショットが映画に存在するだろうか。クリスティーナ・アギレラの歌は映画外では上手いのかも知れないが、他の歌手のそれと比べて飛びぬけて「上手い」というわけではない。そもそも「シンクロで歌う」はずが「アフレコ」である以上、ちっとも画面は振動せず、結局のところクリスティーナ・アギレラのあの歌は、映画的には「上手い」歌とはならない。そこで撮る方としては、この映画でやったように、彼女の歌を聴いている者たちの驚きの表情をカットバックさせて、映画的に「上手い歌」を演出することになるのだが、それは果たして「上手い歌」なのか。そうではなく、「上手い歌だと『読める』歌」ではないのか。モンタージュによって画面をつないで初めて我々はクリスティーナ・アギレラの歌を「上手い歌」であると「理解する」のである。知性によって。

「何も変えてはならない」
(2009)の批評で書いたが、「ご縁玉・パリから大分へ」(2008)において、どうして子供たちは泣いたのか。それは決してエリック=マリア・クテュリエの歌が「上手かった」からではないだろう。違う。そうではなく、声が振動として「揺れた」からである。

おそらくこれが、「A」と「B」の違いではないか。「上手い歌」ショットを撮ることのできる者=Aと、撮ることのできない者=Bと。「B」的な資質に包まれた人は、例えば歌を、「上手い歌」として画面に撮ることはできない。100%例外なく、とは言わないが、性向としてはある。

グッズあり。
1/21更新

映画研究塾/藤村隆史