映画研究塾トップページへ

藤村隆史・映画のはしりがき~2025.5.25

「夕陽の群盗」~どこにでもある西部劇が批評家のお戯れで神話化され国営放送で放映される。有料で。6.21

鉄則~ずっとフィクションを撮っている人が実話を撮り始めたら要注意。6.20

映画に対する犯罪を一度も犯さず批評家人生を終える者はいない。いつ、それに気づくか、気づかないか、その差に過ぎない。6.20

邪魔な存在~スーパーで手を後ろに組んで歩いているおやじは妻の付き添いに過ぎず彼の手に取られた商品は必ず商品棚に戻される。6.20

批評家の誕生~人は初期映画を見た時『今見ると古臭い』とけなしながら『見る価値はある』と意味不明の言葉を付け加えて批評家となる。6.19

二刀流を諦めるか諦めないか、、そう考えた瞬間、オオタニは去ってゆく。6.18

ユーモアが必要だ。批評家にはユーモアが欠けている。上から目線だからだ。6.18

見ること~メジャーリーグ中継→バックネット裏で野球を見ていない客が多いチームは基本的に弱い。6.16

追悼文は生きていることの無限性に耐えられない自己への感傷文にほかならない。6.15

批評家は大衆の見ていない映画を求めて試写会に行きそれでも批評が書けなければアメリカへ行く。彼らは宇宙へと旅立つだろう。絶対未公開映画を探して。6.14

カンヌ映画祭は拍手の長さと作品の価値が反比例する。6.14

我々は常に神話と向き合わされる。権威の指定したベスト100を見て語り馴らされてゆく。6.12

批評、それは作品をそのままなぞること。軟体動物が批評家として望ましい。骨のある奴に批評はできない。6.12

講演、対談はただ、既成事実を作るだけで批評とはなんの関係もない。6.10

何を撮るかではなく何を撮らないか。それが映画。6.10

『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』、、、これは集団催眠術だ。6.8

作家は被害者意識を持ってる。批評に対して、批評家も被害者根性を持ってる。自分に対して。6.7

テクストを無視したければ瞳を閉じればよい。そうすれば消えてなくなる。6.7

凡人を芸術家に仕立て上げる、感傷的に、集団的に。6.4

見ることのできる事柄を「見ていないこと」にすること。それが参考文献文化。6.4

『勲章~もらったときはかならず、「欲しいと思ったわけじゃない」と言うべし』~『紋切型辞典』(フローベール)、、どこかの授賞式で聞いたセリフだ。6.3

テクストとコミュニケートする限り英雄は死なない。永久に不滅だ。6.3

自分を疑いつつ、いかに自分を信じられるか、それが批評の興り。5.31

スポーツはキャメラを動かすと物語が撮れ動かさないと運動が撮れる。おそらく、それはスポーツに限られないだろう。5.31

批評家は作家を発掘できても成長させることはない。5.31

マクガフィンが弱いと運動は物語に絡めとられる。強いほど、荒唐無稽であるほど、バカバカしいほど、運動は自由になる。5.28

YouTubeのサッカーのダイジェストには「はしっこ」しかない。5.27

批評がなくても映画は困らない。困るのは批評家だけ。5.27

物語はちょっと語り足りないくらいがちょうどいい。語り満たされると神話になりベストテンに入れられ共感のシンボルとなる。5.26

論文を出す時はいつも夢のような感覚に支配される。決して出されることはないものが出てしまうから。5.25

ひとはアリストテレスと呼び捨てにできてもハスミとは呼び捨てにできない。テクストとコミュニケーションしていないからだ。5.18

ひとはありもしないアウラを求めて批評を書く。映画の死へ突き進む 5.17

多くの場合、主演の女優よりもエキストラや侍女たちの方が美しい。モーションピクチャーは美しさを競うメディアではないからだ。5.11

感動は批評を窒息させる。5.11

感傷的なのは大嫌い、とジャン・ルノワールが語るのは彼が感傷的な人間だからだ。2025.5.10